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「祈り」の中身ってそういうこと  369

一日中雨予報だし、大雨警報が出続けていた日曜日。
ザザーーーっと降ったと思ったらピタッとやんだり、急に風が出てきたと思ったらまたザザーーっと降ったり。
そんなお天気を眺めながら「台風」「線状降水帯」「梅雨」なんて知ってる言葉に当てはめようとする自分に「はい、知ってるものの中から探すやつ!やめるやつー!」なんてツッコミ続けていた日曜日。


島はそんな日曜日だったけれど、東京は都知事選真っ只中。
そんなに選挙を気にしている訳ではないのだけど、ひょこっと目にしたさとうみつろうさんが都知事選の応援に行くという情報を目にした。

「あぁ、みっちゃんでも政治の応援に行くようなタイミングなんだなー」なんてぼんやり思っていたのだけど、特に気にしてはいなかった。


午前中に3時間超えのZOOMに参加したからか、はたまた雨降りの湿気のせいか、どうにもお昼から眠気が襲ってきた。
予定もなかったのでお昼寝しよう!とゴロゴロしながら目覚ましをかけようとiPadをつついていたら、ちょうどみっちゃんが応援に入るタイミングの映像が目に入った。

選挙応援の動画なんか震災後の数年以来、真面目に見ていなかったけれど、寝ればいいのになぜだかぼんやり眺め始めた。


雨の中でもたくさんの方が集まっている。
サンシンを弾くみっちゃんに、候補者さんもスタッフさんも傘をさしかけながら話したり歌ったりしている。

東京で沖縄の歌。
なじみのない人はどんな風に反応したらいいのかわかんないのかもしれないなぁ…なんて思いながら、盛り上がりがゆっくりペースなのを少しはがゆく感じながら眺めていた。


彼は沖縄の石垣出身らしく、毎年この6月23日は沖縄に帰るんだということを話していた。
沖縄慰霊の日だから、と。

あぁ、そうだ、大事な日だ…。
その大事な日に、東京に残ると決めて、その大事な日にその候補者さんを応援しに行くと決めたんだ。

なんだかその決断に勝手に思いを馳せた。


そんな彼のブログの中にこんな文章があった。

今日は沖縄県は『慰霊の日』。
沖縄県だけは、銀行も祝日扱いで休みです(今年は日曜に重なってるけど)。
昼12時には沖縄全土にサイレンが鳴り響き、一斉に黙とうを捧げる。
26万人が死んだ。

うちなんちゅとして、
イマココに自分の肉体があるのは先祖の交配による結果なので、
毎年必ず、沖縄に戻って頑張ってくれた先祖たちのために祈るようにと・・・
心がけて来たけど。

さとうみつろうオフィシャルブログ「笑えるスピリチュアル」2024/06/23「今日は沖縄慰霊の日」より

何気なく読んでいた。

そうしたら、はたと目に留まった言葉があった。

頑張ってくれた先祖たちのために祈るようにと・・・

あ…そういうことだ、と思った。
この文脈からしたら違う意味かもしれないけれど、そういうことだ…と。
先祖に手を合わせるって、先祖に祈るって、先祖に感謝するってそういうことなんだ!と初めて納得できた。←遅い


小さな頃から

誰のおかげで今の体が、人生があると思っているの?
当たり前じゃないんだよ?感謝しなさい。
敬いなさい。

そんな感じのことを、ご先祖の話になると必ずと言っていいほど耳にしていた。
うちの親戚が…というよりも、多くの人々が同じように言う、そんな感覚だった。


わたしは、あまりにそれを言われ続けることで、あまのじゃくでヘソ曲げ子な性質を発揮して

無理やり感謝を押し付けられる息苦しさ、背負わされる重さ
「お前なんて…」という蔑み
理由はなくても「尊敬しろ」という飲み込めなさ

みたいなものを感じていて、もうお腹いっぱいだった


それはご先祖のことに思いを馳せたくないとか、大事に思ってないとかそういうことではなくて、お墓やご先祖にまつわるものの形や解釈の仕方、対応の上っ面感に辟易していたということだった。

そして、そのあたりのことをごっちゃにして「苦手」と思っていた。
すんなりストレートにいかない、風通りが悪いもの、と思っていた。


でも、このみっちゃんの言葉でストンと腑に落ちたのだ。

そう、わたしの前にすんごい数の人がいて、その人たちの営みがわたしという命を今ここに存在させてくれていることに繋がっている。

そこに「おかげさま」の「ありがとう」はもちろん持てばいいけれど。
そこじゃなくて、その人たち一人一人が生きた、人生を頑張り抜いた、そのことに
「お疲れ様でした」「頑張ったことにありがとう」なんだと。

一人一人の人生に…

頑張り抜けた人生に
頑張りきれなかった人生に
病気で辛かった人生に
楽しくて幸せだった人生に
泣きはらしたかもしれない人生に
後ろめたい思いを抱えたままの人生に

どんな人生にもそれぞれ貴賎なく、それぞれの尊さを思って祈ればいいんだ。

そう思ったら、初めてちゃんと「祈れる」ような気がしてきた。
わけもわからず敬った風で、顔もちゃんと見ようともせずに手を合わせるだけ…みたいなことをもうしなくていいんだと思うと、息がしやすくなるような気がしてくる。


大事さを伝えなきゃ、という切実な思いが「正しさ」やいろんな意味での「傲慢さ」を含みながら少しずつ変質して、しつけのような「縛り」となり、大事なはずのことが「形骸化」していく。

本当はそれが一番寂しくて残念なことだよね…
なんかメビウスの輪みたいにどっかでグルンとしちゃったのかね…
なんて思った日だった。




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