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宣孝殿の一言  362

自分が思う自分だけが自分じゃない

みたいなことを、まぁしっくりくる装束で語る佐々木蔵之介さんのこの言葉で今日の大河は始まった。


確かに、自己イメージと他者から見るイメージが乖離しているのはよくあること…だろうけれど。

わたしの中で自己イメージは、時間や経験とともに積み重なったものの現在の形という感じ。
もっと言えば、時間や経験を、そこで反応した自分を「わたしのモノサシ」で測った結果、それを解釈したもの。

一方、他者から見たわたしのイメージとは?
自己イメージと重なることは割と少ないのでは?という印象だし、どちらかというと「積み重ねる」自己イメージと対極の「彫り出されていくもの」だったり「貼り付けられてくもの」のように感じている。

この人はこう見てるのか(ゴリっ←彫る音)
この人からはこんな人間に見えてたんだ(←シュッ)
みたいにだんだん人型になっていく…
もしくは「こんな個性だよね」みたいなことを書かれた付箋をたくさん貼っていって人型になっていく、みたいな。
ん?それだと積み重ねることになるのか?


昔の芸能人なんかはこのあたりの乖離が激しくてメンタルも大変だったと推測するけれど、芸能人じゃなくても「人からこう見られた」と「人からこう見られたい」の誤差は大きく響いてくるよなぁ…なんて思う。

そう、期待というか望みというか、そのあたりの存在が自分の中ではっきりつかめていたら幸いかもしれない。
それがどんなに黒かろうと…。
本当は人が言ったことよりも、自分の中での乖離に手をやくことでほとんどが構成されているようにも思うよね、人のココロって。


佐々木蔵之介氏は「ありのままを引き受ける」と主人公・まひろに言っていた。
別に思いを寄せる人がいても
場の雰囲気を読めなくても
人と違っていても
その全部をひっくるめて引き受ける、と。

この文章だけを見るとステキなお話に思えるけれども、実際のドラマではまぁまぁ胡散臭くて強引でなんとも言えない清濁のバランスがよかった。


自分が思う自分だけが自分じゃない

自分が思うより勇敢な自分がいるかもしれない
自分が思うよりゲスな自分がいるかもしれない
自分が思うより攻撃的な自分に出会うかもしれないし
自分が思うより可愛い自分が顔を出すかもしれない

もしかしたら、自分が思うタイミングも、自分が思う幸せも、自分が思う誰かも
全部「あり」で全部「ただそれだけ」なのかもしれない。


どこでどんな自分に出逢おうとそれも「チーム自分」だし、なんならその場その時の自分がいるとなると「イメージに一貫性を持たせなきゃ…」みたいなことこそコントールで無粋なのかもしれない、どれも自分ってことからすると。

懐が深いようで、こずるいようで、大人なようで、妙に幼稚な路線でホントのところをついてくる佐々木蔵之介氏に色々楽しませてもらった日曜の夜だった。





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