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梅干し作りで知る「おおらかさ」とは  364

昨日「変化」のことを書いたのだけど、梅と関わっていてもうひとつ思ったことを書きたいと思う。


わたしがひとりで梅干しを作りだしたのは30代になってからだった。
そもそも、その頃はそこまでは梅干しを好きではなかったし、食べたいならばあちゃんが漬けたのがあるし…みたいな熱量だった。

だから、作り始めた時は「梅が畑になってるから…」みたいな理由だったし、本当にガチの何も知らない人だったので

へー、梅って塩入れたら水が上がってくるんだー
へー、その水のこと梅酢って言うんだ…水なのに酢っていうの?酸っぱいから?それだったら安直だな…
え?赤紫蘇って後入れなん?入れる前に別で塩もみ?あくとり?え?どんだけ手間いるん?

と、まぁ…ひどい素人だった、って今も素人だけど。

こんな工程を経て今に至っているけれど、こんなところを通ったから梅と一緒に漬けた赤紫蘇を乾かして砕いたら「ゆかり」になるってことを知ったくらいだったので、無駄なことはないとは本当だとも言える…とかなんとか。


で、次に訪れる工程、土用干し。
これだって…

え?三日三晩干すの?夜露に当てる?え?なんなら梅酢も太陽に当てるの?
でも、これをするとしないとじゃ梅干しのエネルギーが違うとな?
…そりゃやるでしょ!

みたいな、ただの欲を大いに発動して色々やっていた。

思った以上にザルは赤く染まるし、朝になったらもう一度梅酢に潜らせてザルに乗せ直していたらザルの下はびしょびしょになるし…
本当に「やってみないとわからないこと」だらけだった梅干し作りの最たるものは、その土用干しの際に一粒一粒の梅を揉んでいくことだった。

は?一個ずつ?カンカン照りの太陽の下?20kg以上の梅を?一人で?
ムリムリムリムリーーー!

あまりのことに、一年目は梅もみをスルーした。
「ちゃんとやる」にも限度があるでしょ!なんてブツクサ言いながら。


で、その梅干しを食べても、揉まなかったからって何が違ったの?なんて思いながら大差ないような印象でいたのだけど…。
その頃なぜか友人知人から梅干しをいただくことが続き、いろんなものを味わう機会があった。

実が大きくて柔らかい
はちみつの甘さが食べやすい
タネがスルッと外れて実が残らなくていい

なんて、色々「おいしい」の内訳を見ていたら…
はちみつの甘さはさておき、どうも実離れのよさは土用干しの際の梅もみのおかげだということを知ったのだ。

そう、わたしが省いた「あれ」。

なるほどなー…あの動作をしていたら、もっと違った梅になったかもしれないってことだ…と思うと、なんだかむずむずと「やってみたらいいじゃん」「っていうかやるでしょ」なんて気持ちが動き出す。
欲の偉大さよ…。

結局、そのことを知った次のシーズンからは一粒ずつ、毎日カンカン照りの日の下でみちみちと梅を揉んでみた。結果、びっくりするくらい身離れはよくなったし、重ねて味も変わったように感じた。それ以来、ずっと土用干しの梅もみ作業は定番となって落ち着いていたのだけれど…。

そんな梅干し歴を経て、現在やっている漬け方は…材料は似ていても結構工程というか動作が違っている。

昨年初めてやってみたのだけれど、今年の作業に入ってから思ったのは
違うのは動作だけじゃないかも…ということだった。


今までの漬け方だったら、まさに欲に突き動かされて=欲しいゴールに向けて、一粒ずつ梅をモミモミしたのだけれど。
新しい漬け方は、もちろんおいしい梅干しになって欲しいという欲はあれども、言ってみればわたしのそんな欲はどうでもよくて、ただ目の前の梅がどんな状態なのか?メンテは何が必要か?そのことを最優先でやっているだけなのだ。

今まではモミモミ=種から梅の繊維をはがす行為=この梅干しをおいしくいただくために必要なこと=いいことだった。
だから、心を込めてというよりも、梅の耐えうるギリギリのところまで
「種からはがす…種からはがす…」
とやっていた。それが「いいこと」だと思っていたから。

でも、今やっている漬け方だったら、もしわたしが「もっと揉みたい!」なんて思ったところで、その梅にモミモミが必要なければ最小限しか触れない。
もしくは、早く引き上げる梅もあったりする。
わたしがどう思うか、どうしたいかなんて1ミリも関係ないのだ。
必要なのは「梅がどうか」それだけ。


この現在のやり方を始めた時には「経験がないと見極められないじゃないか」と感じたのだけど…二度目の今回、その見極めは「経験」だけがもたらすものじゃないらしい…ということを知った。

この梅の今の状態はどうか?

これを常に一粒ずつに投げかける。
「観察」は確実に増えるけれど「工程だから…」と手を出すことがグンと減っているように感じる。


そんなことを眺めながら、この新しいやり方は「未来をコントロールしようとしていない」だったり「梅そのものの力を信じている、もしくは任せている」とも言えるし、その任せた先にやってくる想像を超えたものを受け取れる唯一の方法だとも言えたりして、こういうのを「おおらか」っていうんだろうな…なんてことを思ったのだ。

今の流行りで言えば「縄文味」なんて風に言えるかもしれないし、しっかり見るけれど手を出しすぎないなんて、ちょとした教育関係のフレーズみたいにも聞こえる。

でも案外、この古くからの梅干しの漬け方(をわたしが理解したもの)と現在やっている漬け方は教育をはじめ、自然や人との関わり方、ひいては世界との関わり方にも言えることかもしれない…なんて壮大なことを夢想しながら今日も梅とみちみちと関わったのだった。





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