『弾丸宣言』あとがき

 「放たれた弾丸」とは、理性としての「銃」から発射されたモノであるから、過去のモノである。そして、過去は、「銃」によって捕捉される。ここで、「弾丸」と「銃」が乖離していることが分かる。「放たれた弾丸の責任」とは、「弾丸」が負う責任ではなく、「銃」が負う責任であり、そして、その責任は、負わされたモノではなく、「銃」が自ら負ったものである。「弾丸」は常に動くが、「銃」は常に留まる。「銃」は留まっているからこそ、「弾丸」の過去を見続けることができる。そのとき、「弾丸」は動き続けている。
 文章を書くという行為は、虚構を作る行為である。「銃」は虚構。「弾丸」は弾丸ではない。「銃」という虚構をつくってしまったために、あるモノが、「弾丸」として定義されてしまった。「弾丸」は「銃」から発射されたものではない。「銃」が、その目の前に、動くものを確認したとき、それを自らの同一性から見てしまったために、「弾丸」であると認識してしまった。ゆえに、「弾丸」は断続的な活動として理解されてしまった。
 そのような理解のために、文章を「弾丸」であるとみなしてしまった。しかし、『弾丸宣言』では、文章を「弾痕」としている。あらゆる作品を「弾痕」としている。
 ここで「弾丸」と表現されているモノは、「生」のことである。「生」は一つであるが、暴流でもある。「生」は、不断だ。
 『弾丸宣言』は、『「生」宣言』でもあって、なぜ「生」を宣言する必要があるのかといえば、まあ、謎解きみたいなもんで、いろんな言葉つけて遊んでいるだけ。
 でも、あくまで宣言ではある。改めて『弾丸宣言』を、そして、こちらの方を『弾丸宣言』とする。

『弾丸宣言』
1.生を弾丸として認識することで、一生を意識する。
2.無限を詰めた弾丸であれ。
3.再び弾倉に込められてはいけない。そして、支配するな。
4.我々は、引き金を引いていない。着弾するまで生きろ。

22.12.26




 
 

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