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奴隷貿易と難民ビジネスの思想的類似性



「難民である」などという『同情』の衣をまとわせてはいるが、その実は「人の貿易」という「斡旋ビジネス」であり、そこで取引される「難民」という同情の衣をまとった人は、移動した先の国の企業などで「低給」で働かされるという・・・言葉や形式が変わっただけでその根幹にある思想そのものは「奴隷ビジネス」と何ら変わることのない思想であろう。

それは「魔女狩り思想」のポリコレと親和性を持ち、「敬虔な善の使者」を装いながら、人権庇護者であるかのごとき衣をまとい、その実、悪辣な人権を無視したビジネスが行われているのである。

ポリコレという恐喝と、難民という押し売りを、偽善の衣を着せて「慈善事業」に見せかける屁理屈を並べ立て、腹黒い者たちは今日も人身売買を平気で行う。

そんなものに関わりたくない大人たちは、得てして日和見を続け、自分の立場の死守だけに努めている。


アサシンクリードシャドウズから始まった騒動は、まさにアサシンクリードの世界を現実に引き起こしているという・・・
かつてイエズス会がやっていたことをなぞるように、慈善の裏側で極悪なビジネスが展開していたことになる。

きっと炎上させ続けた人たちは、理屈ではなく『本能的に』危機を察知していたと思う。
そして「日本人として」の大きな社会正義が自然と発動されていたことに賞賛を送りたい。


「冷静になれ」という日和見な言葉しか出せない大人たちには、きっと彼らのような「意欲」も「正義感」も失われてしまっているのだろう。
微細な違和感に引っ掛かりを覚えることのできる繊細な意識と、すり減ってツルツルになって何も引っ掛かることがなくなってしまった意識の差なのだろうと思う。


養老先生が以前語っていたように、算数が数学に変わるとき、その違和感に引っ掛かる子と引っ掛からない子がいて、そこで一つの分かれ道が生まれるのと同じようなものだろうと思う。

そこで「引っ掛からない」人にとって「引っ掛かる」人の気持ちはわからない。
なぜなら「その感性が無いから」である。
「理屈」ではない「感性」の問題であり、だから初めからその「感性」を持たない人にとっては全く理解ができないのである。

逆に、引っ掛かったとしてもその引っ掛かりを「無いこと」にしてしまう人もいる。
だがそれをすることにより自らの「感性」を自分で殺してしまうということになる。
だが、そうしないと「お利口さん」として先へ進むことができない。
言い方を変えれば「承認されない」わけである。
だから自分の感性を殺してでも「承認される」という選択をせざるを得ないのは「承認欲求」のほうが勝っているからなのであろう。

まぁ、そういった「心理的動機」を操作するのも「教育」なのであるが・・・・
学校教育とはある意味「承認プログラム」であるから。


だから高等教育を受ければ受けるほど「承認プログラム」のコントロールを受けた思想の持ち主となってゆく。
些細な「感性」よりも「他者に承認」されることのほうが大事な人が出来上がるというわけである。
この場合の「他者」とは「目上」であり「先生」であり「社会」であり・・・
自分が進むために「承認」が必要なものに対して「承認欲求」が振り向けられるように「慣らす」プログラムだ。
けっして「自己承認」などではない。
仏陀の「天上天下唯我独尊」という「自己承認」の『反対側』へと向かわせるプログラムなのである。


それでも引っ掛かりを、違和感をそのままにせず、追い続けることは「お利口さん」たちには「けっしてできない。
だから京大准教授の宮沢先生の行動は、なかなか異質で稀有な存在であると思う。
そういえば宮沢先生はピアノを弾いていた。
つまりは「感性」を磨いていたことになる。
だから引っ掛かり、放っておけず、とことん追求し、京大から追放された。


感性を大切にする人と、感性を殺している人は真逆の行動をする。
だがそれは「平時」においてのみ。
平和が脅かされリスクが現実になったらひっくり返る。
簡単に言えば「津波が来るのを察知して事前に行動し得る人」と、「津波をかぶって慌ててパニック行動を起こす人」とに分かれるのだ。


信長も秀吉も家康も「津波を察知して行動し得る」から津波から逃れることができた。
だが江戸時代の平和が長く続き、「感性」よりも「理屈」が主体となった日本に、再び津波が来たときに避けることができず、幕末・明治維新を迎えることとなった。
津波に吞まれてからあわてて改心して「感性」を再び復活させた例である。

第二次大戦後、再び日本は「平和」になった。
そして「感性」は急速に失われ、理屈が支配する社会となり、現在すでに「波にのまれて」いるのに、それでもまだ波に吞まれていると「気付けない」人が非常に多い。


「感性」というアンテナを失った人は未来を察知しえない。
教訓すら役に立たない。
歴史から学ぶことも無いのだ。

奴隷貿易をしていたイエズス会は日本に於いて最終的に「何をした?」
『日本人を奴隷』として貿易しただろう。

今それが起こっているだろうに・・・・
「里親」などという慈善の衣をまとって・・・・・・・・




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