見出し画像

左傾化した保守はもはや左翼と同等である



答えは一つのパラダイムに囚われた思考は、一つの「答え」に向かっており、やがて「一つ」の「答え」のもとに集約してゆく。

「調和」は「同調」へと集約し、「一つの答え」に同じでないものは排除されゆく。


空気を読み同調することに慣れた日本人の思考は、「空気を乱す」ことを「調和を乱す」ことと考える。
学生時代から・・・いや、学童時代から染み付いた習慣は、すでに無意識の判断となっており、それを当たり前のように土台に据えているところから生まれる考えは、当然そこに帰結してゆく。


個人個人がバラバラな考えを持ち、それが「調和する」姿など見たこともない者たちが、何をもって「調和」という言葉を使っているのか?
本来、バラバラな考えが一つの柱でまとまるというものが「調和」であるが、そんなものを見たことが無い、考えたことも無い者たちが、何をもって「調和」と言っているのか?

それらは行動に如実に表れる。

「調和」という言葉を使う時、誰かと同じような使い方をし、「言葉遣い」を「寄せて」いっていることに気付かない。
それもそのはず。
「調和」自体が『わからない』のであるから、「誰か」の言葉を参考にし、「誰か」の言葉をコピーすることで「同調」し、「調和」という言葉を使っているからにすぎない。
そして「なんとなく調和している感」が自分の中に生まれ、それをもって「調和」であるという。


結局、人は『型』から入らなければならないほどに思考が「逆転」してしまったのである。
この思考は「外国」特有の思考順序であるが、日本人は本来『逆』である。

『在る』という自分の中心から『型』が生まれてくるのが日本の思考順序であり、言葉そのものもそのように順序立てられている。
だが、現代では『型』から『中心』を「あーでもない、こーでもない」などと探しているからいつまでたっても自分の中心が見つからない。

そもそも「中心」は「型」から探すものではないし、「型」から探せばそれはただの「型の中心」であり、『在る』という自分の中心とは別のものである。



おそらく迷路にはまり込むであろう。
なので話を最初に戻す。

言葉で追いかけている時点で『左脳領域』なのである。
いくら左脳で「中心点」を見つけたところで、それは「左側の中心点」でしかないということだ。


以前にも何度も書いたが、「左脳は答えに辿り着けない」のである。
左脳が出来ることは「辻褄合わせ」でしかない。
左脳が合わせた「辻褄」が「現実」と『整合性』が取れているかどうかの判断をするのは「右脳」である。

だが人はそれをすることをずっと「怠って」きた。
だから「辻褄」が合えば「答えが出た」と判断し、そこで「現実との整合性」を忘れて決着させてしまう。


だが、そんな「辻褄」でも、人の数だけ「答え」があるが、結局のところ『声が大きい』や『権力がある』者の「答え」へと帰結し行く。
学生時代から繰り返された「慣習」である。

そこに「同調」し行くことを「調和」と言い、そこに「同調」しない者を排除する「慣習」は、すでに「共産主義」の『土台』そのものである。

「民主主義」はだから生まれた時からすでに「共産主義」なのである。


「調和」だ「保守」だと言いながら、争い競争しているのは、すでに「調和」から逸脱し、「同調」という「ひとつ」に執着し、「答えは一つのパラダイム」の檻の中で、一人のボス猿を決めているようなものである。
それは、すでに「過去のピラミッド世界」である。



そのピラミッドに閉じ込められ続けるものと離脱し行くもの・・・・

多様性という言葉で「縛る」者
調和という言葉で「同じ」で括る者
差別という言葉で「区別」を排除する者

何より「空気」に負けて自分を曲げる者・・・


やがて「頂点」の無くなったピラミッドに「取り残されゆく」者たちである。



ピラミッドの頂点とは「同調の柱」

だがそれは「調和の柱」ではない。


多様性を認められず、調和がわからず、区別することを忘れ、空気に流される者たちが「柱」を失った時・・・
彷徨うのはやはり「頂点の無いピラミッド」の中でしかない。

そして、統制を失った者たちは、多様性が認められないから、調和がわからないから、「同じ」へ帰結するための争いの混沌が訪れる。


争わないことが「調和」なのではない。
いや、言い方を変えよう。
表面上争わないことが調和なのではない。
表面的に穏便に取り繕っていても、内心には不満を抱えている状態は、すでに「調和」からは程遠い。
それは単なる「型の同調」に過ぎない。


「調和」するためには自分の「言葉」と「行動」と「心」が『調和』していなければ決して「調和」とはならないのである。

たった一つの「答え」があるとするなら、『自分が調和出来なければ他人と調和など出来ない』ということである。
これは「答え」ではなく『理(ことわり)』である。
当たり前に在るべくして在る『理(ことわり)』である。



今、世界はピラミッドの頂点が「離脱」している最中である。
にもかかわらず「頂点」であった者たちを「悪」とし、それらと戦い対抗することを正義と信じている。
それは、頂点の無くなったピラミッドに「取り残されて」いるということに外ならない。


安定したピラミッドが「平和」だと思っている者たちは、ボス猿争いを始めている。
左脳に囚われた者たちは、左傾化した「保守」という「ピラミッド」へと回帰しようとしている。
敵を倒せば平和が訪れると思っている者たちは、けっして「調和」した世界へはたどり着けない。

「平和」「平穏」という言葉にしっかりと結びついた「ピラミッド」から、いかにして脱出できるだろうか?


「頂点」の無くなったピラミッドは、『蟲毒(こどく)のツボ』そのものである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?