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九分九分九厘の霊懸かり ~共同想念という霊を産む組織


久しぶりに風邪をひいて、体中が、頭が痛い中で眠るのもままならないというのに、神々というのは遠慮なしに導きを降ろしてくる。
痛みのある中での夢うつつの中での対話や問答は、「いやがらせか?」とも思えてしまう。
しかし、そんなつもりは無いようで、一生懸命『祝福』のサインをたくさん送ってくるところを見ると、実はこの風邪も『祝福』なのだろう。

年末に『納豆をつくろう』と思い立ち、黒千石という小粒の黒豆と稲藁を取り寄せた。
それが年を明けて届いたのだが、稲藁を送ってくれた方はわざわざ手紙を添えてくれていた。
その手紙を見ると「まさか正月早々に地震で・・・」と書いてあった。
実は「石川県」の農家さんが送ってくれた稲藁であった。
「震災」の直後の大変な刻に、わざわざ送ってくれたということで、恐縮するのとありがたい気持ちで思わず頭を下げて感謝した。

そんな石川県に向かう「ボランティア」に避難が殺到している。
正直、日本人はどこまで愚かに堕ちてゆくのだろうか・・・・・

左脳の中での「妄想世界」だけで生きている人々は、五感を使った「想像」が出来ないのだろう。
自分が「被災者」になった想像など夢にも出来ないのだろう。

飢えと寒さと夜の闇・・・
揺れ続ける大地・・・・
救いの来ない現状・・・・
そんな中で人はどのように思い、どのように一刻一刻を刻んで耐えているのか。

なのに「行くな」と言う。
行って役に立てる人がいるのに行くなという。

「管理者」としては「自分で管理している」ということのために「行くな」と言っているだけである。
それは「管理者」の立場というだけのこと。
そこに「正しさ」などというものは存在しない。
しかし、それが「正しい」とする「お利口さん」だけが取り柄の「左脳傾倒妄想主義者」が「救いたい」という人の心を罵倒する。


「左脳傾倒妄想主義者」たちは「現実」の想像が出来ない。
五感を使った想像が出来ない。
だから「理屈」だけを押し通す。

ワクチンも然り、マスク警察も然り、そして今「ボランティア」する人を取り締まる「ボランティア警察」でも気取っているのか・・・・

売名行為だ何だのと罵るが、それで一人でも多く救われるのならいいではないか。
神戸の震災の時、地元のやくざ屋さんたちがボランティアをしていた。
外からもボランティアが入っていた。
交通のための道路が遮断されているから、みんな「歩き」で荷物を抱えて神戸に来ていた。
個人的な思い、個人的なつながり、そんな些細なものでも救いとなる。
何より「助ける」という気持ちが見えるだけで心は休まる。

それを「行くな」と言う。
そして、「行くな」と言われて行かない「お利口さん」たち。


罵倒されながらも行った人たちは私は偉いとしか思わない。
感謝しかない。
石川県から震災後にもかかわらず稲束を送ってくれた方々に、一日でも早く「平穏」を取り戻してほしいと願う。
私自身行けないから、何か出来ないかと思い、少しでも足しになればと「配送の手間がかからない買い物」をして、それが少しでも恩返しになればと、稲藁を送ってくれた農家さんが販売している全く別の商品を購入した。

2020年のコロナ禍から、管理者たちは人々を「調教」し続けている。
ワクチン接種然り、マスク然り、行動制限然り・・・・
そして今回の震災においても「調教」しているのである。
『言う事を素直に聞くホワイトカラーなお利口さん』
学校という教育の中で「調教」し、メディアを使って「調教」し、事あるごとに「調教」しようとする。
それらに対して「逡巡」する人々・・・・

【誠】が無いからである。

悪の汚名を着せられようと、【誠】を貫き通す【覚悟】在るや無しや・・・

ここ最近の導きは、年末に唯一行った【楠公さん】からのもの。
【大悪党】と呼ばれながら【誠】を貫き通し、【神】へと上がったお方である。




九分九厘の霊懸かり


潜像世界に現れる「想念」の塊は、やがて姿を成し「霊」となる。
人は自らの想念で「霊」を生み、その「霊」に懸かられる。
一人の思いなら漠然としたものなれど、それが集団となると色濃く現れる。
それはやがて「思いの塊」となり、「思い」という『意思』を持つ。
意思を持った思いの霊は、同じ波長の人と親和する。
つまりは「それを生み出した思い」を持つ人と、同調してゆくということ。

例えば、会社のことを「法人」と呼ぶが、ある一定の目的や意思で組織された集団は、性格のある「思いの塊」となり潜像界に示現する。
それは人と同じく「生存本能」を持ち、それがゆえに生みの親である「人の想念」と同調して「生存本能」に従って人に懸かり、懸かられた人は「それ」の「生存」を優先することとなる。
だから、どんなに「ブラックな会社」でも「存続」してしまうのであり、だからどんなに「ブラック」な境遇でも「辞められない」のである。

おおかたの「宗教」もそのようになっており、本来『解脱』するためにはそこから『解脱』しなければならないのだが、「集団想念」で生まれた「霊」と一体となり『囚われ』の中に落ち込む。
だから『教えの世は終わり』となる。
組織して教えれば教えるほどに「囚われる」のである。

では、それを今度は『日本国』という「組織」に広げてみる。
この『日本国』を運営しているのが『日本人』となる。
その中の「管理者」が政治家であったり財閥であったり・・・・
だから彼らの言葉で人々は逡巡する。

だが「日本」というものの『捉え方』が違えば、日本という想念の霊に懸かられない。
実は、この「日本」という想念の「霊」は、明らかに【神】から逸脱している。
だから今の日本は【神国】とは言えない。
おかしな【悪霊】の姿をしているのである。

神の目から見れば「誰がどんな想念」を発しているかは一目瞭然であり、それは「何と同調しているか」が一目でわかるからである。
本当に心の底から一点の曇りなく、揺らぐことなく【神】を思っているなら、その想念は【神】の衣となる。

だから神と繋がるのである。


今、霊界は戦争状態である。
しかし、人々の「思い」が「悪霊」を大量に湧かせている状態であり、ごく少数の人々がなんとか【神】の纏う鎧を提供しているだけである。

九分九分九厘と一厘

そんな戦いの最中である。




【癒奏術・雷華】

霊界という「潜像界」に於いて、一厘の神軍へと導くための【祓い】を行うのが【雷華】
此岸と彼岸の間の「川」に、【満干の珠】の【龍】を呼ぶ。
木花咲耶の御子を助けた龍神
そのお力をお借りして、川岸に花咲かす。
地獄となった彼岸の河原を神の力で楽土と成し、大峠の大戦で「神の軍」へと加わるために、悪霊を生む想念を祓い、神の衣を生む「誠」を取り戻す。

神々は確と見ている。
楠公さんに采配された神軍の英霊たちも見ている。
大戦の英霊たちの「嘆き」が聞こえぬか?




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