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人それぞれの「生存戦略」のための「正義」・・・という名の『承認欲求』


「承認欲求」という「生存本能」に根差した欲求は、「おぎゃー」と生まれた赤子の時より始まり、幼少期を経て家族とのかかわりの中で培われてゆく。
そして、人の「生存戦略」の違いがそのまま「正義」の形として成長と共に育成されてゆく。


人は「親」という存在、特に「父親」という存在を基にして「社会性」を学ぶわけであるが、そこが「人それぞれの社会正義」という『違い』が生まれる根っこの部分でもある。

だから「家族」の在り方そのものが人それぞれの「正義」の在り方を分けるわけで、その「子供時代」の学びを基にして実際の「社会」とすり合わせを始める思春期・・・
自分と他者の「正義」の違いを認識し、生存本能が欲求する「承認欲求」の違いを認識し、そこで「生存戦略」が変化する思春期・・・・

そして思春期を過ぎて実際の社会と合流する卒業期・・・


子供が目指す社会と家庭の「整合性」がとれていれば「反抗期」は訪れず、離反していれば「反抗期」となり現れる。
それは単に「親の正義」と「子供の正義」の『違いの対立』である。


時代の流れによる社会変動があれば当然、親と子の両者の「正義」は違うものとなる。
同じように代々伝統的なほど似通った家庭のかたちであっても、時代の流れにそぐわなければ思春期の子供は敏感に察知する。
そこで「型の本質」を抽出できるか否かで「型の継承」が出来る出来ないが変わってくる。


まぁ、それはどの家庭でも同じことである。
かたちが違えど本質的な「軸」を見失わなければ、どんなに「型」が変われど継承は出来るわけである。
しかし、かたちの「側」の方ばかりを見てしまえば、本質は見えなくなる。
いくら探っても本質には到達できない。
本質とは「側」から探るものではなく、自分の中に見つけた「軸の一致」に気付くことである。

家族と言う歴史の継承は「型の継承」ではなく「道の継承」が本質なのである。

そして、その「家族」が拡大したものが「社会」であり「国家」であり「世界」なのである。

つまりは、家族とは「道」であり、「決まった型」ではなく、「生き様」そのものの「現われ」が「かたち」に過ぎず、その「道のり」が様々であるからこそ様々な家族のかたちがあり、そして様々な「正義」が存在する。

なだらかな道と険しい道ではその「生き方」という現われは違ったものになるのは当然である。
生存の条件も違い、だから生存戦略も違い、承認欲求の「立ち位置」も全く違ってくる。


だが、なだらかな道を行く者は、険しい道を行く者の「型」を『悪』とし、その逆もまた然りである。
「型」に囚われて本質であるところの「道」を見ていないからに他ならない。
それは同時に自分の「道」も見えていないと同義なのである。




なぜ今こんなことを言うかというと、社会そのものの構造が激変しているからである。

社会は家族の拡大版であり、家族は社会の縮小版であり・・・
社会と家族の関係性は「鶏が先か卵が先か」という議論と同じようなもの。
社会が変わるという事は、実は家族も変わっているわけである。
それはもっと根源的な「個人」が変わっているからでもある。

もっと言うならば「生物的」な変化の時代に突入しているということ。


全ての人が「道の変更」を余儀なくされるほどの変化であり、だが人は「かたち」に囚われて「道」を見ていない。
だから「変化」に対応できない。
対応できないまま、だが「生存」が脅かされようとしている。
だから今までの自己の「正義」が首をもたげてくるわけである。

「生存戦略」
その今までの「成功例」という「型」を踏襲していこうとするわけであるが、「道の変更」を余儀なくされているのに、そのままの「型」で進めるわけがない。
「道」が変われば自ずと「型」も変わらざるを得ない。

だが「型の変化」を必死に拒んでいる。
だからいつまでも「正義の対立」が起こる。

自分の「型」を崩さないため、自分の「生存戦略」を崩さないため、自分の「正義」を崩さない。
だがそれは「自分だけの正義」であり、それは「同じ道が続く」前提があることで許される正義であり・・・・

そうして人の正義と正義がぶつかって「争い」が生まれ「戦」が起こる。


正義の根底にあるのは「自分の生存戦略」であり、それは自分だけの「正しさ」であって他者の正しさではない。


「道」を知る者は「正義」から「正しさ」を除外する。
ただの「義」とする。

「義」は軸であり道である。
そこから「型」として現れるのが、その「義」の「正しさ」というもの・・・・

道が変われど「義」は変わらない。
だが何故か「正義」は変わる。
それは「正しさ」という個別の「型」が変わっているだけであり、だから人は「正義」を語りながらも、その実は「正しさ」の『型』を語っているに過ぎず、それは「人の数だけある型」であり、軸であり道である「義」が抜けているから対立することとなる。


道を変えるというだけのことにこれほど難儀しているのは、人の正義の中に「義」が抜け落ちて「正しさ」の押し付け合いとなっているからである。

おそらく「義」がわからないのであろう。

それを知るには人々が主張している「正しさ」が「正義」ではなかった・・・・と認識する出来事を通らなければならないのだろう。





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