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権利を奪う戦争



気付けば種(たね)の権利を奪われ、米(こめ)の権利を奪われ、5月に決定されるパンデミック条約に絡めてウィルスの権利を奪いつつある。
ウィルスの権利などというものまで独占しようというものたちが「菌」を放っておくわけはなく・・・・
「紅麹」騒動も恐らくそれらの一環であろうと思う。

いずれ米を造るのも、酒を造るのも、味噌醤油を造るのにも「お伺い」をたてなければならなくなるだろう。


多くの人は「情報」という「情」に絡みつく言葉に「感情」を引っ張られ、気付いた時には自分たちで「その流れ」を作っているということになる。

自由、革命の名のもとに立ち上がり、そうして「自由主義革命」を成し遂げてきた・・・・と思い込んでいる。
だがその実、自由、革命の名のもとに「不満」を正当化する「正義」を掲げ、「悪」を為す建前の自由、博愛、平等の旗を掲げて「革命」に酔いしれ、「情報」に振り回されてまんまとコントロールされゆくだけである。

情報通だという者ほど「情報」に振り回されているわけであるが、当人たちはそんなことには気付かない。
「情報」に「感情」を絡めとられ、その「情動」のまま行動していることに気付かず、自らは「正義」の旗を掲げ行く。


テレビが「メディア」なら、ネットも当然「メディア」なのである。
「メディア」である限りその本質は同じもの。
ただ単に「場所が違う」というだけの話である。

人が変わり場所が変わり手段は変われどその「本質」は全く同じ。
「情報ツール」でしかない。

人そのものが「情報」というものに依存している限り、全く同じものとなってゆくだけである。
結局は自分の「感情」に「報いる」ところへ寄せられてゆくだけである。
そうして気付けば自らの行動で自らの首を絞め行くこととなってゆく。

テレビという情報ツールでコントロールされることの「型」にはまった人々は、ツールが変わっても何ら変わりはない。
全く同じ「型」でコントロールされるだけである。

ましてや、テレビ以前に「教科書」という教育のツールで、そして「学校」というツールで「思考の型」を作られてしまっているのである。
その「型」のままで何処へ行こうと同じ結果が待っている。

いくら情報だけ新しくしても、それを処理するものが古いままでは、古い処理の仕方しかできない。
そこを一新しなければならないのであるが、それが出来ない。
出来ないまま「情報」に自らの「情」を絡めとられゆく。

ネットはもはや「人の感情の坩堝(るつぼ)」と化し、制御の出来ない混沌である。
その感情に「方向性」を持たせて、そのエネルギーの流れをコントロールすればいいだけの「発電機」のようなものなのである。

自らの「喜怒哀楽」が実は「電池」であることに気付ける者はあとどれほどいるのだろうか・・・・・




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