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『ポリコレという差別主義』~「多様性」を狩る魔女狩りと占領のための尖兵




中世の魔女狩りは「多様性」を認めない「差別」から始まった。

『我々の提唱する神以外は神ではない』

という究極差別である。

そして

『その神が許さぬものはすべて悪魔の仕業である』

そうして罪なき人々が「魔女狩り」によって命を落とし、人々の文化やコミュニティは分断され踏みにじられていった。



ポリコレ(ポリティカルコレクトネス)は

『我々が提唱する「多様性(差別を無くすという正義)」以外は正義ではない』

という偽善的差別のもとに『偏った多様性』を押し付けるだけの『魔女狩り』である。


そしてそれは「史実」までをも捻じ曲げ

『我々が提唱する史実観こそが史実である』

として文化を歪めコミュニティを破壊するためのひとつの「装置」が『ポリコレ』という偽善なのである。


この「キリスト教的」思考の産物であるポリコレは、未だ中世の精神状態を引きずったまま、ただ姿かたちを変えて「差別弾圧」をするために生み出されたもの。

『多様性』という名のもとに「多様性」を破壊し「統一性」へと向かうために生み出されたこのシステム装置は、文化の多様性を否定し、個人の意識の多様性を否定し、『画一化された多様性の型』へと無理やり屈服させるやり方であり、それは中世の頃から行われてきた『魔女狩り』と全く同じ思想のもとに活用されている。


「そんな大げさな・・・」

おそらく「魔女狩り」へと発展し行く最初の段階では誰もがそう思っていただろう。
だがその「悪の種」は『撒かれた時』には何の変化が無くとも、芽を出し成長するにつれ、害悪を振りまく蔦草のようにまわりの植物を覆い枯らしてゆくことになる。

『多様性』という言葉にダマされ、『限定的多様性』の種をまかれ、その者たちが称える「多様性」以外の多様性は刈り取られ、気付けば「画一性」の奴隷に堕ちていることとなる。
キリスト教徒たちが「神」の名のもとに国々を「隷属」させてきたように、ポリコレ教徒たちが崇める「多様性」の名のもとに文化を破壊し、個性を破壊し「自分たちの多様性」に隷属させるのである。


ポリコレ提唱者たちは中世の宣教師と同じであり、宣教師が国々にある、地域ごとにある『神々』を【神の名のもとに】排除してきたように、国々にある、地域ごとにある『多様性』を【多様性の名のもとに】排除している最中なのである。


宣教師に隷属させられ海外へ「奴隷」として売り飛ばされた日本人のように、日本人は「外国の多様性」に隷属させられつつある。
「多様性」の言葉にダマされるのは、「多様性」という言葉に対して自分が持っているイメージと他者が持っているイメージが【違うものだ】ということに気付いていないからである。
国々で、地域地域で「神」の姿が違うように、「多様性」の姿も違うのである。
それを理解し得ない限り、人は『言葉』によって騙され続ける。

「同じ言葉でもイメージする姿は違う」のだということだ。


自分たちが提唱する「多様性」が『善』であり、それ以外の「多様性」は『悪』であるとするのがポリコレ思想である。
それは中世のキリスト教徒たちが行ってきた「神」による「魔女狩り」と全く同じものである。
つまりは「差別」であり「迫害」である。



すでに「隷属」し始めている者が多い中で、それでも「自分の多様性」「日本の多様性」を死守しようとしている者たちがいる。
それは「文化」を守り、「歴史」を守り、「神」を守り、何より自分たちの「自由」と「権利」を守ることに外ならない。


かつて中世の頃は、織田信長の時代に刺された宣教師たちの「針」を、豊臣秀吉が抜き、徳川家康が防壁で塞いだのである。
それが今という現代に同じように起きている。
一見、何の害ももたらさない宣教師たちが懐に仕込んでいた毒針のように、「ポリコレと言う名の多様性」の提唱者たちはその懐に注射針を仕込んで善人面して「悪の種」を植え付けている最中である。

あ、そういえば家康の時代に「按針」というのがいたっけ・・・

ウィリアム・アダムス(William Adams、1564年9月24日 - 1620年5月26日〈元和6年4月24日〉)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。日本名は三浦 按針(みうら あんじん)。サムライの称号を得た最初の欧州人だった。

Wikipediaより


なぜ「三浦按針」と名付けたのであろうか?

按(押さえつけ・撫でつけ)た針・・・ということだろうか?


この「按針」事件が今ハリウッドで話題となっている真田広之の『将軍』の物語であるのも偶然だろうか。

そして昨今炎上し続けている「弥助」という信長が召し抱えた黒人。
その炎上の火種が「ポリコレ」なのである。


とあるイギリス人が日本大学准教授となり、この黒人「弥助」を「伝説のサムライ」というふうに捻じ曲げた論文と言う名の著書を発表し、それがもとで鎮火することの無い炎上が続いている。
ありもしない歴史をでっちあげ、Wikiまで改ざんして自らの説を「史実」であるとし、それを「ポリコレ宣教師」たちが悪用しているから炎上が一向に鎮火しない。
しかもその人物が日本の「教科書」にまで手を加えているという・・・

文化の破壊、神話の破壊、コミュニティの破壊は「共産主義」の共通課題であるから、教科書を編纂する「日教組」はよろこんでそのような人物を起用する。
「同じ敵は味方」とばかりに手を組む。


ポリコレ思想の元は「共産思想」であり、共産思想の大元は「キリスト教」である。

自由、平等、博愛
それらの言葉は「キリスト教下での自由、平等、博愛」であり、キリスト教以外の自由も平等も博愛も認めない。
そんな「神々を弾圧」した「魔女狩り」の時と同じように、「多様性」を弾圧し行く。


不自由な自由、不公平な平等、愛無き博愛

水瓶座の時代の自由、平等、博愛

ただ「言葉」だけに囚われて本質が見えなければ、気付けば自由も平等も博愛も「失ってはじめて気付く」ことになる。

「学の知恵」という「屁理屈」に捻じ曲げられた自由、平等、博愛という「言葉の針」を呑まされないうちに、押さえ撫でつけ「按針」とする必要がある。



ハリウッドで真田広之が見せた「将軍」に於いて、キリスト教徒の宣教師たちが「奴隷商」をしていたことを「初めて知った」という人々も多い。
日本では当たり前の史実も、海外で当然のように認知されているわけではない。
そして、逆もまた然りである。

だからそれを覆すべく今度は「弥助」が起用されたのであろう。
その「伝説の黒人サムライ・弥助」を創作した論文と言うには程遠い創作物には「弥助以降、日本人が黒人を奴隷にすることが流行した」などとありもしないことが書かれており、それを「史実」であるとして世界に広めていたのである。
だから、日本のことを知らない人々は、それが「史実」であると思う事だろう。
それ以外にも様々なとんでもないことが書かれているようである。
そして、それをもってポリコレ宣教師たちは日本の文化と歴史の「破壊」を始めようとした。
まずはゲームから・・・
そうして何も知らない人の「常識」として種を植え付ける。
「あぁ、日本人は黒人を奴隷にしていたんだ・・・・」と。

白人が黒人を奴隷にしていた史実を知らされていない人たち、特に子供たちは常識の中に何を定着させるだろうか?

『白人至上主義』

優生思想と共産思想とキリスト教が合体したこのキメラの怪物は、日本で言えば鵺(ぬえ)のようなものである。
彼らがどんなに愛を語ろうとも、自由を称えようとも、平等をうたおうとも、その根底には三つのキメラ思想の「鵺(ぬえ)」が潜んでいる。
その思想の「立ち位置」からしか見ない愛であり自由であり平等なのである。


風の時代の「言葉」は「風」である。
ある方向からある方向へと吹く「風」である。
どちらから吹いてきて、どちらへ吹き去ってゆく風なのか・・・
その「風読み」が出来なければ「言葉」の真意はわからない。






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