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『アヴェ・マリア』 ~キリストは何故「馬小屋」で産まれた?



頭の中で「アヴェ・マリア」の歌声が延々と流れる・・・・
その歌声をBGMにして溢れ来る複数の言霊を同時に紐解いてゆく。
正確には一つずつであるが、一つ紐解くと次に繋がり連鎖してゆく。


日本に「仏教」を定着させるために奮闘した「聖徳太子」という『厩戸御子(うまやどのみこ)』は、はてさてどこから来たのか?
その聖徳太子の後ろ盾となっていたのが『蘇我馬子(そがのうまこ)』

「あぁ、馬じゃないか・・・」

などと思いながら、この頃の「蘇我馬子」や「小野妹子」など「〇子」という名前は「老子」「孫子」「呉子」「韓非子」など中国に於ける「尊称」であることを思い出す。

「ではこの【馬子】も尊称なのだろう。」


皇室の歴史の中で「女性天皇」が存在した。
ちょうど蘇我馬子や聖徳太子が生きていた頃の前後に「推古天皇」「持統天皇」という女性天皇であった。

「蘇我氏」は・・・というより「蘇我」にまつわる一族は、女性をトップに据える一族であった。
そんな蘇我氏ゆかりの天皇が「推古天皇」「持統天皇」となる。


ここでおもしろい発見をしてしまう。
「アヴェ・マリア」
中国語で「萬福・瑪利亞」となる。
だがこれは現代の「中国語」であり、マリアが存在した当時では「馬利亜」というふうになるだろう。

そう。
マリアやキリストの時代にはすでに「漢字」は存在している。
秦の始皇帝が「漢字」を制定したのが紀元前なのであるから。
つまりは「馬利亜」が本来の名だったのではないかということだ。


さて。
こうなると「キリストは何処から来た?」という疑問が湧く。
いや、キリストやマリアが「何処から来た?」というより、彼が語っていたモノとは?
という疑問となる。


蘇我馬子という名前といい、厩戸皇子という名前といい、女性天皇という事実といい、「聖母信仰」というものが伺えるのである。
また、蘇我馬子のところには「司馬達等(しばだった)」という人物もいた。
まるで「司馬遷(しばせん)」「司馬懿(しばい)~司馬仲達(しばちゅうたつ)」など、かつての中国にいた人物たちを連想させる。
しかも「司馬」という「馬」の文字。
かつて大陸で「馬」を扱う様々なことを生業としていた「馬部(ばぶ)」なのだろう。


話は変わるが、賀茂で祀られる「玉依姫」はいわゆる『処女懐妊』であり『賀茂別雷命』を産んだ。
この「賀茂氏」と「秦氏」は同一族
同一族というよりは「根っこを同じくしている」と言った方がいいのか。
そして「蘇我氏」も恐らく根っこを同じくしている一族であろう。
その根っことは「秦」という国であり、その「秦国」の根っこにある『何がしか』であろうと・・・
それは「始皇帝」の根っこにあるものであり、その根っこは「秦国」樹立後に始皇帝が『神道』をもって統一基盤となる「神」を批准したことで見えてくる。
そして「賀茂」と言えば『陰陽師』であり、現在「古神道」と呼ばれる元祖のような存在である。
その賀茂から修験道の最初の人である「役小角」が現れ、のちに『密教』へと繋がってゆく。


さて、再び話は飛ぶが、聖徳太子や蘇我馬子は「仏教」を伝来したのだが、それははたして純粋な「仏教」なのであるか?
まるで「マリア像」を思わせる柔和な仏像の数々・・・・
日本の仏像は「男女の区別がつけがたい」ほどに女性的なものが多いのである。



始皇帝が制定した「神道」は、「仙道」というに近いものであり、それは日本でいうところの「古神道」とされるものに近く、「修験道」に近いものである。
その根っこは「霊界」との通信であり、茫洋と広がるその「霊界」に存在する「仙界」への帰順と通信と協調・・・・というべきか。
そして、そこに【神】を戴いている。
非常に「人間的」な神々であり、中には「獣的」な神もある。
そして、お互いが申し合わせて「あの世とこの世の瀬戸際」で連携しているわけであり、だからこの世にも影響が与え得るわけで、だから「奇跡的」なものが散見されることになる。

だから、日本の神社的なところの神々は、そうした「浅瀬」の神々の「通信所」と言った方がいいだろう。
夜になると『霊』が湧くのは、そうしたことによる。


話をキリストに戻そう。
はたしてキリストは「何を」語っていたのだろうか?
きっと、死後に興った「キリスト教」は、キリストが語ったことと「真逆」へと進んだのではないかと思う。
それは、キリスト教が「魔女狩り」を行ってきたことを思えば容易に推察できる。
「神道」のように『呪術的』なものは徹底的に弾圧された。


恐らく・・・
西側では霊的なものは理解されず、受け入れられず、だから「始皇帝」は「東」に流れて来たのだろう。
モーゼが「東」を目指したように。

西へ行くほど「霊的」な「神」は滅殺されてゆき、善悪の「善の象徴」という「理屈の主体」となり、その対比としての「悪」を置くことで「人の心」を管理する「呪縛」と為したのであろう。
それは恐らく「モーゼ」の頃には始まっており、だから彼らは東を目指し、自らの「神」が息づく地を目指してエジプトを出たのだろう。

「中東」と呼ばれる地域から、西と東に分かれるように「神」そのものが分かれていった。


さてさて、話を最初に戻す。
「マリア様」とは「玉依姫」そのものであり、どっちが先かと言うと当然「玉依姫」である。

ー同じようで違うのは「龍」と「ドラゴン」の違いと同じであり、「理解」の範疇に大きな差異があるから「同じようで違う」ものとなってしまうのであろう。ー


そして賀茂が祀る「玉依姫」は、賀茂の神道の根底にある。
その「賀茂」の「神道」は「秦の始皇帝」の「神道」への傾倒に見て取れる。
つまりは「同根」
そして、蘇我氏や聖徳太子の根っこもそこにあると・・・


ここで一つの疑問が生じる。
ではなぜ「物部守屋」は排除しようとしたのか?
「神」が根っこにあるなら、なぜ排除しようとしたのか?

それは蘇我馬子や聖徳太子が広めようとした「仏教」で「神」を塞ごうとしたからではないか?
その「仏教」はほんとうに純粋な「仏教」なのか?


日本で広まった仏教には「キリスト教」的な匂いが混じっている。
それは「人が神仏という存在を引き合いに出して善悪の価値観でコントロールする」という匂い。
それは明らかに「天」を「権」の下位に置くということ・・・・

それまでの「神」は、人がコントロールなど出来ないし、してはならない存在である。
だが、「仏教で統治する」という題目で「理屈」を潜ませていたからであろう。
それを日月神示で『仏魔』と看破されたものの正体であろう。


物部守屋の「守屋氏」の家紋は『㊉(丸に十)』である。
薩摩の島津氏も同じく『㊉』
これは「結び」
いわゆる「生命の結び」である。

ここで昨日からずっと導きが降りてきていた「和久産巣日神(ワクムスビ)」について。
「稚産霊神」とも書く。
これを「神界」では「〇九十(ワクムスビ)」と書く。
何のことはない。
『〇九十(誠・まこと)』なのである。
それを「ワクムスビ」という呼び名を「付け加えた」ということに過ぎない。


誠とは「言(九十)が成る」ということ。
「成る」とは「産まれる」であり「出現する」であり「示現する」ということ。
薩摩のお家兵法は「示現流」である。
つまりは「結び」である。
「斬る」という結果を「示現させる」ことであり「結ぶ」のである。
だから示現流の「斬る」は「人の力」ではなく「神に委ねた結果」であり、だから「斬る」を意識しない剣技となり、まるで握った刀を「神に預ける」ような斬撃となる。
走りこんでいき相手の前で刀を自らのコントロールから放して「委ねる」ところに極意がある。
あとは「結果が結ばれる」ということだ。

きっと、「物部(もののふ)」の長(おさ)である「大物主」から連綿と受け継がれる『誠』であり、それは『〇九十(ワクムスビ)』という神が「在るべく在る」結果を『結んでくれる』という・・・・
それが「㊉」という「結び」に示されている。

それは「アワ」の「ワ」の前に示現する「ウ」であり、だから大物主の根っこには「スサナル神」があるわけで、示現流の剣技にはスサナル神の「ウ」の「🌀」を示現させるという「結び」の剣法というわけである。

そして「ワクムスビ」から生まれる「ウカノミタマ」
「ウ」が化身する御魂ということ。

「ウ」まれる(産まれる)
「ウ」カする(羽化する)

転化の示現は「過去の死」と「最誕生」によって示現するものであり、だから神話で素佐鳴命が「殺した」ものから新たな転化した生命が生まれている。
そして「ウケ」というものも同じ。
「ウ」の気を持っているから「ウケモチ」であり、それらは「転化」を示現する「気」が内在されており、人の衣食という生きる糧となるものに冠された「神名」である。
そしてやはり根っこに「ウ」という示現の「🌀」がある。
だから「🌀カノミタマ」であり「🌀ケモチ」ということである。


恐らく、聖徳太子以降の日本は、この「神に委ねる」から「管理統制」する方向へ転化しているであろう。
権力による管理統制の道具として「神」を使いはじめた世界の潮流が、日本に浸食したということだ。

それは今の人々を見ればよくわかることである。

神に「委ねて」いるか?

それは「投げだす」ことではない。
やるだけやって「結び」は神に委ねるということである。
神が「羽化(🌀化)」という変化を赦すなら、それが結ばれ結実するという「委ねる」である。
つまりは「種をまいて水をやる」ことが必要であり、それが「結実」するかという採択は「神」の領域なのである。
そこには一切の「排除の原理」は働かない。

だが、人は「神の赦し」など待っていられず、結実のためにあらゆる手を出し、本来「自然が望まない」という「神の赦し」が無い「結実」を作り始めた。
そうやって産まれたものには神の「🌀」は無く、不自然な想念の「🌀」を纏った様々なものが生まれ出でているわけであり、それは「神」ならぬ「霊」であり、天の🌀に呼応して起こるスサナル神の🌀ではなく、ただただ霊界に「神」と繋がらぬ「霊」を生み出しているわけである。


生きるべくして生きず、死すべくして死せず・・・・
ウカノミタマ、ワクムスビ、そしてスサナル神から離れ「蘇民将来」から逸脱した人々は、だから天照大神ともはぐれ、さらにその上の神々からもはぐれて、理(ことわり)から外れた「霊」と繋がり、それらを「神」と崇めているわけで、だから『九分九分九厘の霊懸かり』とは「神」の縦糸からはぐれ生み出された『ヒルコ霊』に自ら懸かりゆく人たちなのである。
だがそれは伊弉諾伊弉冉の神が産んだ「ヒルコ」ではなく、さかしまに産んだ霊たちなのである。


偶像を追い求めるのも聖徳太子から始まり、人の「好み」に像を作り上げ、神に「委ねる」ことを忘れた人々は、だから神を「好み」の偶像に仕立てる。
それは、すでに「自分の下に神を置いている」ということである。

日本に入って来た「仏魔」により、「神」は捻じ曲げられていった。
そして「誠」は失われ、善悪的価値基準で「誠」は定義され、本来の「🌀(神)に結びを委ねる」という根っこが失われ、まるで「造花」のような言葉となった。

ただただ「神」の本流への回帰を願って東へ向かったモーゼと、「神」を上書きするために東へ向かった人々・・・・
それを知るすべはとうに示されている。
「非理法権天」
「天」が一番上にあるかどうかである。

それは言葉に現れる。
行動に現れる。
言葉も行動も「思い」の「影」である。
「影」の姿たかちを見れば「思い」の姿はわかるのである。





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