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日の鏡 月の鏡

鏡について

「日の鏡」とは日本に神話や物語として残っている「教え」であり、教えの「真髄」の部分である。
しかし、「髄」だけのものにしっかりとした「型」が無いため、そのものが漠然としてしまって「髄」を捉えられなくなっているような状況がある。

だから、神話が意味するところが本来の姿と全く違うイメージで捉えられているのが実情である。


物語というのは「出来事の連続性」であり、その連続性は「順序」というものを示しているが、それが一体何の順序を示しているのか・・・というところにさえたどり着けないほど、漠然としたただの「物語」となってしまっている。
だから様々な妄想を膨らませ、後付けの「外殻」を付ける作業を行い、そうして物語や神話に様々な「説」などが生まれ、それらの「説」によって思考はさらに逸れてゆく。
本来、決まった「外殻」があり、そこにきちんと収まれば「外殻」と「内臓」が収まったきちんとした「生きた教え」となる。

その「外殻」が外国に残っている「教え」であり「月の鏡」となる。


外国は外国で「外殻」だけを頼りに「中身」を様々に想像して整えようとはしているが、地域や言語によって「中身」が様々な「説」へと置き換えられている状況である。
「外殻」を頼りに中身を「捏ねて」いるようなものであろう。
そうして出来上がった中身が地域や言語で様々な色や形が生まれ、様々な「宗教」が出来上がっているわけである。

新興宗教なども「そのやり方」の応用であり、「型」に勝手な中身を詰め込んだものとなって生まれる。

およそ「宗教」とはそのようにして生まれるもので、「宗」という外殻に「教え」を「後から」詰め込むという生まれ方をする。


スピリチュアルなども同じで、ただこれは「外殻」が非常に漠然としていてどこからどこまでが「外殻」なのか「わからない」漠然とした「外殻」を持つ。
それが「スピリチュアル」という言葉が持つ「言霊」そのものの姿である。
だから中身も漠然としていても良い・・・ということになる。

これは「蛭子霊」そのものの姿のようであり、茫洋と漂いながら「意志」を与えられて様々な「蛭子霊」を産み落としてゆく。
アメーバのように増殖するようにいくらでも増えてゆくのである。


このように、外殻という「型」の無い「日の教え」は、外殻となるものがいくつも生まれて枝分かれしてゆく。
髄という「中身」のない「月の教え」は、様々な中身が詰められ、様々な「宗」という器が増えてゆく。

スピリチュアルという「髄」でもなく「型」でもない単なる言霊霊は、漂いながら増殖してゆく。


本来、一つであった「教え」は、「髄」と「型」とに分離され、別々の時を過ごしてきたわけである。

天照皇大神である瀬織津姫のころには確かに「一致」していた「日月の教え」は、すっかり「月」が抜け落ちて今まで伝わってきており、月読命の教えはすっかり「中身」が抜け落ちて伝わってきている。

だから、いくら学んでも修行しても、本来辿り着くべき場所に辿り着けないのである。



『華厳の道 日月の鏡』でそれをしっかりと「合わせ鏡」として、本来ある姿へ返したいと思う。
物語でも教えでもない「道」となるのが「真経津の鏡」
それが「弥勒菩薩」となるための「華厳の道」である。




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