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日と月



平安のころ、支那国(中国)からひとつの書物が日本に入ってきた。
「孫子」という兵書である。
そのころ、日本において様々な書物や軍事を司っていた「大江匡房(おおえ の まさふさ)」という人物が、「孫子」を見て『これは日ノ本にはそぐわない書である』として蔵の奥に秘していた。

だが、どこからかそんな書物があることを聞きつけた源氏の頭領である「八幡太郎義家」がやってきて、大江匡房に『孫子を見せてくれ』と言ってきた。
だが匡房は渋って断り義家を帰したが、その後も義家はしつこく「孫子」を見せてほしいと言い続けてきたため、匡房はやむなく見せることにした。
ただ、孫子だけを渡してしまえば「世は乱れる」と考え、匡房は自らの手でひとつの書を執筆して「孫子」と共に「この書を必ず読むように」と念を押して義家に渡した。
その書物を「闘戦経(とうせんきょう)」という。


大江匡房は何故そうしたのか?
「孫子」は支那の国で生まれたものであり、兵書としてはとても優れたもので、匡房自身その兵法の素晴らしさを充分理解した。
だがそれは同時にとても危険な要素を孕んでおり、それが心無い者の手に渡れば間違いなく「世は乱れる」ことになると感じ取った。
それほど優れた書である。
だが、そこには「肝心なもの」が欠落していた。
それは『精神性』とでも言おうか・・・

つまり、「孫子」という署は「手段」の書であり、それはある意味とてつもない「凶器」となり得るものである。
だから、どうしても「孫子」を読みたいのなら、同時に「精神性」も養わねばならないと匡房は考え、日本人の「武」の「精神性」という支柱となるものをしたためた「闘戦経」を書き、両書を「合わせ鏡」として義家に渡したのである。

簡単に言えば「孫子」という武の「〇(手段)」に「闘戦経」という武の「・(精神性)」という柱を合わせて「⦿(合わせ鏡)」としたのである。
そして、この「⦿合わせ鏡」の兵書を大江氏から直接学んだもう一人の人物が「楠木正成」であった。

だが、やがて合わせ鏡は分離して、「孫子」だけが一人歩きし始め、「闘戦経」はどこかへ忘れ去られてしまい、結果、匡房が懸念した通り、世は「戦国乱世」へと向かうこととなった。


義家の「孫子」は後に源氏の「武田家」にも伝わり、信玄が所持するに至っている。
そして、戦国時代の中で「孫子」は大いに活躍することとなった。

だが、天の采配なのか、同じ時代に「上杉謙信」という男が現れた。
戦国乱世の中で唯一「・(精神性)」の柱を固持し続けた男であり、奇しくも「信濃」の南北で「〇」と「・」が対峙することとなった。
信濃(支那の)を間に挟んでいるから尚おもしろい。

信玄と謙信が信濃で和解していれば、天下は「⦿」に治まったのではないかと思うが、・と〇はまるで水と油のように反発していた。


その後、時代は「徳川家康」の天下となった。
その徳川の「兵法指南」の地位に就いたのが「新陰流」である。
この時代、「宮本武蔵」という優れた強者も居たが、徳川は「柳生」を指南役とし「新陰流」を徳川家の武の柱に据えたのは、家康がただ単に強さだけを求めたのではないからである。
武蔵の兵法は「孫子」に近いものであり「〇」の兵法であったのに対し、新陰流は「⦿」の兵法であったからである。

「新陰流」を興した「上泉秀綱(こういずみひでつな)」は上野国(こうずけこく・群馬)の人で、武田信玄に最後まで抵抗した人物であった。
だが、北条、今川と連合を組んだ武田に攻められ、上杉の救援も間に合わず落城した。
その時に信玄から幹部待遇で誘われたが断った。
「新陰流」を極め広めたいという思いがあったからで、「どこにも仕官しない」という約定のもと、信玄は秀綱を許し「信」の一字を与えて、以後秀綱は「信綱」として「信玄以外の大名には仕えない」といういわば烙印を押されたかたちで放免された。

「信綱」は「戦国乱世」というものを忌み嫌っていた。
そんな信綱であるから「新陰流」の剣は必然的に信綱の精神性が反映される。
その自ら生んだ「新陰流」という愛しい我が子を「柳生」に託して信綱はこの世から去った。
だから、「新陰流」の剣は「乱世」を嫌う剣なのである。
「活人剣」という「相手の攻撃に則して動く兵法」は、恐らく「合気道」の原点がある。
信綱が最終的に目指した剣が「無刀取り」という技なのである。

だから「厭離穢土欣求浄土」の旗を掲げる家康は、戦乱が起こらないための国造りの剣術として「新陰流」を選択したのである。
宮本武蔵が強くても、一刀流の一刀斎が強くても、「・(精神性)」の如何を家康は大事にしたからこそ、三百年の間「戦乱」へ戻ることは無かったわけである。


そんな武士の「魂」と言われる「日本刀」と言えば「正宗」「村正」という対比する刀がある。
「名刀」と「妖刀」の代名詞となっている二つの「刀」は何が違うのか?
それも前述の事々と同じであり「正宗(⦿)」と「村正(〇)」ということである。
正宗という刀には「厭離穢土」の精神(・)がしっかりと打ち込まれていたのであろう。
かたや、村正にはその精神性よりも「切れ味」や「強さ」といった「〇」に重点を置いたため、精神性(・)が二の次になり、「刀(〇)」の中に「邪念」が混ざりこんでしまう刀だったのかもしれない。
それゆえ「妖(あやかし)」が入り込む「妖刀」となてしまったのだろう。



例えば、日本の「柔道」がオリンピック競技になって大きく変化した。
そして、日本人が行う柔道と、外国人が行う柔道には大きな違いがある。
それは「目に見えない精神性」を大切にしているかどうか・・・であるが、実際に柔道の試合の取り組み方に「違い」が現れている。
それは、柔道の伝統の中に息づく「・(精神性)」も日本人はセットにした「⦿の柔道」であるのに対し、外国人の柔道は「〇の柔道」になってしまう。
「・と〇」がセットであるということが理解しにくいのである。
どうしても「〇」が主体のスポーツという認識なのである。

これが日本人と外国人の明確な違いなのである。

だが、すべての日本人が「・」を主体としているわけではない。
現代ではむしろ少ないのではないかと思う。
しかし、生活やDNAにしみ込んだものが確かにある。
しみ込んではいるが忘れてしまって気付いていないだけなのだろう。
だが、それらの伝統も年月と共に失われているのも否めない。


例えば、日本の何かしらの「⦿」が外国へ行き、それが向こうで変化を遂げて日本に帰ってきたときには「・」が薄れ「〇」がより際立つものとなって帰ってくる。
「霊気」が「レイキ」となったように、生長の家の谷口氏の説いた言葉が「引き寄せの法則」となって帰ってきたように・・・・
それは「正宗」が「村正」となって帰ってきているということと同じようなものなのである。



日本は本来「⦿」の国であったが、幾千年も前から「・」が薄れ始め、その反面「〇」が色濃くなっていった。
その変化の先に今が在る。

「日(・)」と「月(〇)」
「天照皇大神(⦿)」が隠れて岩戸を閉じて、再び開いた岩戸から「天照大御神(〇)」を引っ張り出して据え置いた。

・の無い〇には何でも入る。
「妖(あやかし)」が入り込む余地もいくらでもできる。
だから〇の中に「人」が入り、入る人もやがて乱れが生じ、邪(よこしま)な念が入ってしまうことになった。
中に入りたいものが争い、「天照大御神(〇)」はもはや「器」でしかないほどに落とされた。

だから天照大御神の「お役の神」は伊勢神宮の「宮」には居らず、牛車に乗って宮の外をずっと巡っているのである。
これのどこが「神奉り」だというのだろうか・・・・

それすらも気付けないほどに「神」から離れてしまっているのである。
それほどに「・」を無くしてしまっているのである。


かつて伊勢神宮へ赴いたとき、瀬織津姫を出迎えた伊勢のお役の「市杵島姫」は「おかげ横丁」で牛車に乗って現れた。
そうして瀬織津姫を本殿まで牛車に乗せて向かわれた。
牛車に揺られている感覚と、自ら歩いている感覚の狭間で、本殿に辿り着いたとき、「宮の中身は空っぽ」であることを知った。
伊勢参りをする人々の行列の中に、常に「市杵島姫の乗った牛車」も同じように進みながら見守っているばかりである。

これは、人が行った仕打ちそのものである。
⦿から・を排した〇となり、「我が我が」と人の欲が入るから、このようなことになっている。
まさに「神を堕としている」のである。

そして、神社参りもそのままの「映し」となる。
「おかげ」を求め「欲(・)」を「宮という〇」に入れる如く、賽銭箱に賽銭を投げ込む。
だから市杵島姫は「おかげ横丁」まで出張ることになる。
それも人が「強いている」ことである。


三千年の人の業(ごう)は「⦿」から「・」を抜いて「〇」にしたまま、今なお続いている。




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