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左脳で読むか、右脳で読む


私はおよそ6年ほど前からブログを書いているが、当初のころからその「文体」は変貌を遂げている。
「覚醒」なるものを経験してから月日が経つほど「文体」は「一貫性」を失っているかのように見えるが、芯のところでは外さないという「側」だけが日々変貌している状況である。

この「note」では意識して「左脳的」に文章を書いているが、ブログの方は好き勝手である。
だから、「左脳的」に読んでも「意味」や「意図」は捉えられない。

ある霊能者の方が以前、私のブログを読むときは「エネルギーを追っているだけ」だと言い、内容については「よくわからない」と言い、「エネルギーが色とりどりだから観ている」のだと語っていた。
これは「右脳的」に読んでいるわけであり、出来れば「言葉」も読み取って「右脳左脳」を合致させていただければ、文体の中に三次元を超えた空間が現出するのだが・・・・なかなかそうもいかない。


書かれた文章の「流れ」には、人それぞれの「エネルギー」の流れが存在する。
それを観ていると「一定ではない」ということもわかる。
熱量の高さ低さ、エネルギーの凝縮度、色合いや音色、香りまで醸し出すこともある。

「言葉」とは『思いが纏った衣』であり、その「衣」を着ている「思いの実像」が当然のように存在している。
仰々しい言葉の衣の中にある貧相な姿や、質素な言葉の衣の中にある静謐でありながらも存在感が高尚な姿など、様々な「姿」が「衣」を纏っているのである。

つまり、先の霊能者の方は「姿」だけを「眺めている」ということである。

せっかく「衣」を着せて「おめかし」しているのだから、セットで眺めてほしいものである。


左脳ばかりで読んでいると、その「衣」を着ているものの「真の姿」がわからない。
優しい色合いの美しい絹を纏った「餓鬼」や、ボロを着こんだ「神」を見比べて、どちらに吸い寄せられるだろうか?

左脳エリートをコントロールするのは「容易い」ことなのである。
なぜなら「意図」という「真の姿」までは「見えない」から、纏う「衣」さえ整えればいいだけである。
要は「見せ方」なのである。

SDGsなどという清楚な衣を纏わせれば、それを着ているのが「破壊神」であっても、そこまで「見えない」わけである。
そして、そこに「同調」すれば、自分自身も同じく「清楚な衣」を纏ったかのような気分になる。

『衣を纏いさえすれば中身はどうでもいい』

なまじ自分が中身が見えないから、自分も他者から「中身は見られていない」と思っている。
だから「言葉だけ整えて態度は悪辣」なエリートが出来上がる。


もう一度言う。
「文体から熱量の高さ低さ、エネルギーの凝縮度、色合いや音色、香りまで醸し出す」のである。
文体からこれだけのものが出ているのである。
しゃべればもっと様々なものが「漏れ出る」のだ。
そこに「映像」が加われば、さらに真の姿が現出する。

いくら言葉を整え、声音を取り繕い、表情を偽っても『中身ははみ出ている』のである。

熱、荒さ、色、音、匂い
大昔の人はそんなものをきちんと読み取っていた。
しかし現代人はまるで見ていない。


人は語るとき、知らず知らず「五感」を発動している。
心の中にあるものは「五感」を通じて発しているのだが、五感で捉えることを忘れた人々は、自分が発しているものなど無いと思っている。


昔のジャーナリズムには、そういったものを捉える「嗅覚」が必要であったが、現在の多くのジャーナリズムと称されるものにはそんなものは必要なくなっている。
「意図した方向に」創作する「情報」という「商品」を販売する業者でしかない。
そうして「右脳」が曇り「左脳(左傾)化」した脳に、「中毒性」のあるものを投与してやれば、人はそこから離れられなくなる。
砂糖の甘さであったり、ニコチンの習慣性であったり、パチンコがやめられない習慣性であったり・・・
「価値観を定義」してやるだけで、人はそこに囚われる。
それを「言葉」と「音色」と「映像」で「欲」を刺激しながら、「価値」の檻に誘い込むだけで人は自らの足で「囚われ」に来る。

「左脳エリート」というほんの一部を破格で誘い込んでやれば、あとは「同じ価値観」という「同じ」に囚われた人々がゾロゾロと着いてくる。
それだけで7~8割が動いて「大勢」となるわけである。


「右脳」という「外界」を感知する力を失った人々をコントロールするのは容易い。
身体の「拒絶」など意にも介さないよう子供のころから訓練されてしまっているのだから。
そしてそれが「正しい価値」だと「習って」きたのだから。


曇りに曇った「右脳」を磨いて曇りを取らなければ、いつまでも「現実」を認識出来ないまま、「左脳」が作り出した「仮装世界」の住人のままである。

現実を認識するために様々な「感覚」があるのであって、左脳が本来それを識別して明確にしなければならないのに、記憶に刻まれた「習慣」がそれを阻んでいる。
記憶の中の「価値」と「体験」が、右脳から左脳へ渡る「伝達」を妨害しているのである。
そうして「習慣」という「慣習に習う」という円環を回り続けて脱出できない。
「脱出」を試みると「恐れ」が邪魔をし、「欲」が邪魔をする。
「慣習の円環」に落ち込んでしまった心は、その慣習が破壊されるほどの出来事を経験しないと脱出できない。


だからコントロールする者は「慣習の円環」を「破壊しない程度」に世界を壊してゆく。
それは、自ら気付いて脱出したいと思わなければ脱出できないということである。
そして、多くの人は脱出したいとは思わない。
慣習の円環の渦の中で周り続け、やがて渦の中心に呑まれてゆく。
その時はじめて気付くのだろう。




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