見出し画像

『脳』という【鏡】


脳という器官はあくまでも「受け身」の器官であるのだが、人は脳が最初に発動して行動していると錯覚している。

脳とは「五体」の様々な器官が感受した現象を「写し取り識別する」ためのものである。
眼が「見たもの」、耳に「聞こえたもの」、鼻で「嗅いだもの」、舌で「味わったもの」、肌で「感じたもの」、体内で「感じたもの」などなど・・・
それらを「感受」し「識別」するのが「脳の役割」である。

そして、それら「感受し得るもの」が『現実』である。


筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊祓いをした「伊邪那岐命」が顔を洗った時、左目から「天照大御神」右目から「月読命」鼻から「素戔嗚命」が生まれた。

これは「左目が太陽」であり「右目は月」であることを示している。
そして、左目で見た現象は「右脳」に、右目で見た現象は「左脳」にそれぞれ伝達される。

右脳は「感受」、左脳は「識別」である。
その順序を示したのが、先の「伊邪那岐命が生んだ天照大御神と月読命」である。
どちらが太陽でどちらが月か・・・・

右脳が感受した「肖像」が膨らみ「想像」となり、それが「左脳」へ「行き」「識別」され整理される。
仏陀が言う「受想行識」である。


この順序で思考されるから日本語は「情緒」や「感受性」が豊かな言語となり、世界一「言語数の多い」言葉となる。
たった一つの漢字にも様々な「読み」が生まれ、多彩な言葉の彩りへと変化する。

だが、外国語にはそれが非常に少ない。
それは「順序が逆」だからである。
順序が逆というのは「主」としているものが逆なのである。

「言葉」とは「識別」された結果であり、『それ(言葉)を神』としているからである。

だが、日本的に言えばそれは「月読命」が「主」であり、天照大御神が「従」の立場であるというもの。
まったく逆なのである。

この「主従」が逆さまゆえに様々な事柄が「逆さま」となる。


昨今、日本も「逆さま」の度合いが増して「理屈」が「主」となっている。
理屈さえ通っていれば、それがまるで「事実」であるかのように思い込む。
特に最近は「理系」が主体となり、「月」である左脳が「日」である「右脳」より「主」であるという土台が出来上がっている。

だが、月はあくまで月なのである。
自ら「光」を発しない。
太陽の光を受けて輝くのが月である。
それは、右脳の感受を識別しているという「事実を忘れた」状態なのである。



日本では「天の岩戸隠れ」の時から「理屈」が主導をし始め、外国では「イブが知恵の実」を食べた時から「理屈」が主導し始めた。
そして「言葉」という「識別整理」された後の「型」が「主」として崇められたのである。

それでも日本は平安のころにはまだ、言葉の奥を読み解く力があった。
だから貴族たちは「白粉(おしろい)」を塗りたくり、眉を書いてまで「読まれまい」としていた。
だが、長い年月でそれも薄れ、「言葉」に容易に振り回されるようになった。

さらに現代では「言葉」さえも必要なく、簡単に人を右へ左へと動かせる。
「現実」とはかけ離れたことでさえ、簡単に人を信用させ得る。
それらはひとえに「逆さま」の所以なのである。


現実を現実であると「感受」し得るのはあくまでも「五感」であり「右脳」の領域である。
だが、それらを「否定」する「理屈」が優位となった現代では、現実とは「誰か偉い人が言った言葉」なのであある。
自身で「感受」したものとは真逆であるとしても・・・・である。

感覚はいい加減なもの・・・という「レッテル貼り」に洗脳され、自身の感覚というものに信頼を置くことが無くなった。
だから人は常に「自信」が無い。
自己信頼が無いのである。

自己信頼を完全に破壊され、感受性をただただ「空気を読む」ということに使い、人の顔色、動向、意思を読んで「外れない」ようにすることで、「安心」を得るという、まるで「家畜」がそうしているように完全に動かされているのである。



感受した「本質」を、言葉という「型」が主となり支配すれば、その「型」には「本来の本質」ではないものが入っても構わないことになる。
自分は「本来の本質」を感受してはいるが、それを否定され「本質はこれである」と理屈を捏ねられ、それを「誰か偉い人」が言ったなら、その時点で多くの人は自己の「感受」を否定し、誰かの「理屈」を受け入れる。
多くの人が「理屈」を支持している・・・となれば猶更である。
それを「思わせる」装置が「メディア」というものである。
メディアであたかもそれが「大勢の同意」であるかのようにふるまえば、それだけで人は自己の感受を捨てる。
捨てて同化し「非難」から「避難」する。
もはや「自己の主体性」を持つということは「リスク」しかないと思い込んでしまっているわけである。


唯一、現実を感受するものを捨てていながら、「現実はこうである」と「誰かが言った」言葉をなぞり、他者の感受を「いい加減なもの」として否定する。
そして自分の感受も自ら否定しているのである。
自らの感受を否定したものにとって、誰かが作った「常識」こそ現実であり、自分が感じていることは「非現実」であるとするのである。

これを「岩戸締め」というのである。


天照らすとは天の現象を認識する(照らす)ということである。
それを自ら人は封じているのである。

その岩戸は「誰かが」開けてくれるわけではない。
自分自身で開かなければ開かないのである。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?