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およそ【神】というものを多くの人に伝えるということは、例えば、色を知らない人に彩というものを伝え、音というものを知らない人に音色というものを伝えるに似たところがある。


「多数である」という、およそ「非論理的」なものを「真実」の拠り所としている人にとっては、いくら説明したところで無意味である。
それは【神】というものに遭遇していない人全般に言えることだろう。

だからあえて理解していただこうとも思わないし、説明して説得することもしない。
ただ、起こった出来事の事実と、そこから得られた様々な事柄を記していくのみである。

どのみち本当に理解するためには、自らが「経験」しなければならない。

しかし、たとえ「経験」したとしても、それを「事実」として自己に定着させ得る人もまた少ない。
多くは「常識」と言われるものや、「多数」の波に呑まれてせっかくの「経験」を記憶の隅に押し流してしまう。

だからこれを書くにあたっては、理解してもらうための説明や説得はないのである。
ただ単に、色を知るものに絵を見せ、音を知るものに音楽を聞かせるがごときものである。

ただ、心から「知りたい」と思うものにとっては、それを知る「道しるべ」となるだろう。


【神】を知るために必要なのは、何よりも『体感』することである。
【神】を体感し、【神】を経験することこそ、『神を知る』最も近道なのであるから。

だから昔からそういった類の「修行」というものが様々ある。
そして、そうやって【神】と呼べるものを経験したものに対して、『これが神である』という私の「絵」を見せて、または「音楽」を聞かせて、自身の経験と比較しながら「真実」にたどり着いていただければと思う次第である。


【神】とは説明して理解するものではなく、ましてやただ単に「信じる」というものでもない。

【神】とは『掴むもの』

コツを掴み極意を掴むように『掴むもの』なのである。
だからこそ、「経験」することがひとえに大切なのである。

いくら膨大な知識をつけたところで、たった一度の「経験」には全く及ばない。
なぜなら「経験」という『事実』こそが、紛うことなき『真実』の姿なのであるのだから。


そしてもう一つ言っておかなければならないことがある。
それは「こちら側」と「そちら側」の話である。
神々と繋がる「こちら側」と、今まで生きてきた当たり前の日常という「そちら側」の間には、簡単には踏み越えられない大きな隔たりがある。

その大きな隔たりを股にかけて「どちら側」にも居座ろうというのは、あまりにも虫が良すぎるということである。
そんな簡単に二股をかけられるほど小さな隔たりではないのである。


だから多くのものはその隔たりを超えられず、まるで二股をかけている如く装いながら「そちら側」に居ることが多い。
だがそれは「そちら側」から「こちら側」を遠目に見ているだけのこと。
「こちら側」に足を踏み入れてはいない。
それは、「こちら側」に居れば一目瞭然である。

大きな隔たりの「狭間」を垣間見たからといって、それはけっして「こちら側」に足を置いているということではないのである。


「こちら側」のものは「そちら側」を完全に手放している。
そして、完全に足場を「こちら側」に置いている。
だから一目瞭然なのである。


「そちら側」への執着があるうちは、決して「こちら側」とはなれない。

『それを手放せるか?』
仏陀もそう説いているではないか。


住み慣れた環境から引っ越すように、『生き慣れた』人生から【転生】する覚悟はあるか?

すべての荷物やしがらみを置いて
『天の岩戸』を潜れるのなら・・・・・

【神】は必ず応えるだろう。
そして・・・

必ず【神】を『体験』するだろう。




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