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【手放せない】 昇り降りの二線の壁



先日、空海さんからの導きがあった翌日、知り合いの子から
『友達と高野山へ精進料理を食べに行く』
と告げられた。

彼女はおよそスピリチュアルというものから自身を遠ざけている。
亡くなった彼女のお母さんがどうやら「霊能者」であったらしく、当人も彼女自身も「周りからの目」というものを嫌と言うほど知っていたから、自分からは遠ざけていた。

だが、彼女の娘さんはどうやらその素質があるようで、自身が遠ざけているからといって否定はしない。
娘さんへの配慮もよく心得ている。

だから私自身も非常に「楽」に接することが出来る。
過度な期待も無く、否定も無く、あるがままをただただ肯定してくれる姿勢は非常にありがたいものである。

だからなのか、時々こちらの『導き』の手伝いを『無意識』にしてくれることがある。
本人にその気はさらさら無いが、結果的にそうなっている・・・・という状況が時々ある。

『無意識』だから上の神々も「使いやすい」のだろう。

だから今回も『導き』だと思った。
「なるほど、空海さんはまだ用事があるんだな」
そう思って『用向き』について考えてみて、すぐに答えがわかった。

『数珠』を受け取りに来いということである。



以前、とある方の【桜華】の施術中に『ミイラ状態』の空海が現れ、その方に『数珠』を渡した。
その方自身が前世で空海との縁があった方で、その時はそのことの『意味』はよくわからなかった。
その方が『頂いた』のだなと思っていた。
その方自身もそう言っていたからそうなのだろうと思った。

だが、どうやらそれは間違いだったようだ。

その方に『数珠を受け取りに高野山へ来なさい』という導きだったのだろう。
そして、それを私が預かることになるのだという一連の『導き』だったようである。

結局、それが果たされないままであるので、今回の『導き』が来たわけである。
つまりは、初めに空海から『数珠』を受け取った方は『お役目を果たせなかった』ということである。



では何故『お役目』を果たせなかったのか?
何故『お役目』に気付けなかったのか?

それは、その方が『自分が貰った』ということに決着して、それ以外の可能性を考えなかったからである。

実はこの施術中の出来事の数日後、その方との『縁』が切れることとなる。



そして私は再び思い出した。
以前『剣』を私に渡す『お役目』を果たそうとせず、結果『縁』が切れた人のことを・・・

その人は、3人の人物からそれぞれ『剣』の一部ずつを頂いていた。
その3人から頂いたものがそろって初めて『剣』となる。
それは『十拳剣』
【三女神】となった『剣』だから、3人の方から一つずつ受け取ったわけである。

そして、その完成した『十拳剣』は、何故か『私にだけ』反応していた。
私がその人に近づくと『剣』が反応するため、こっそり近づいても気付かれるほどである。
そのことの『意味』をその人は受け取れなかった。
「私に渡す」
ということに思い至らなかったのである。

その『剣』を貰ったことに喜んでおり、尚且つ、その『剣』があることが自分の存在を他者に大きく示せるものであったから。

そしてある時、私の中の【瀬織津姫】が私から抜け出して、彼の【魂】を説得していた。
【瀬織津姫】が私から抜け出す時、必ずといっていいほど私は眠らされる。
突然の睡魔に襲われ眠ってしまうのである。

そうして説得に行ったのだが、その人の【魂】はけっして手放そうとしなかった。
何故なら、その時その人の【魂】はすでに【禍霊】と化してしまっていた。

何故【禍霊】と化してしまったかというと、その人にわざわざ【邪霊】を憑けた人物がいたからである。
その【邪霊】を【スサノオ】と偽って・・・・

以来、その人は自分が【スサノオ】であると信じ込んでいた。
その人の【スサノオ】の認識は『粗暴』でしかない。
だからいつも『粗暴』な振舞いを【スサノオ】として平然と行っていた。
そんな【神】などあるわけはないという、至極当然のことも考えられないほどに、抑圧された自身の『粗暴』さを【スサノオ】のせいにしていたわけである。
それが気分がよかったのであろう。

だから『剣』を渡すことなどあり得ないのである。
そして、その答えに至ることもない。
だから『縁』は切れた。

そして、後に私自身が【厳島神社】で神から直接受け取る事となるわけである。


今回の空海からの導きもそれと同じ。
渡すべきものが渡さないため、やむなくAプランからBプランへと移行したということである。



手放せない執着
それが何故起こるのか?

それは『剣』を『物』と捉え、『数珠』を『物』と捉えているからである。
それはそのまま『物欲』なのである。

だが私にとって『剣』も『数珠』も『物』ではない。
それは『事』なのである。

ある『作業』という『事』を行うための道具にすぎない。
だから『作業』が必要なければそもそも『いらないもの』である。
なんなら『作業』をしなくて済むならそれに越したことはないが、そうもいかないからそのための『道具』が必要になる。
だから『物』ではなく『事』なのである。

それが『執着』が生まれるか生まれないかの差である。


料理をしないものが切れ味のいい高級包丁を持っていても意味がない。
しかし、『物』に囚われればそれでも欲するわけである。
ステータスであったり、自己満足であったり、自分を補完するというものであったり・・・・
だから手放せない。
手放せないから『導き』を受け取れない。


そうして次から次へと『替え御魂』へ移行してゆくのである。


せっかく神々から『お役目』を頂いても、出来ない人は多い。
自らの『慾』でスピリチュアルに携わるほど、『お役目』からは遠のいてゆく。
だから、初めからスピリチュアルなど眼中にない人の方が、神々からすれば使いやすいのである。
妙な慾や執着がない『無心』な分、「使える」わけである。

そして、使われるごとに上がって行く。


【龍人和合】の『結び』を行っているが、結局のところそれも同じこと。
【龍】を『物』と捉えているものは上がれない。
ペットか何かと勘違いしているのだろう。

【龍】は『物』ではなく『事』である。
神々の導きをこなすための『力』という道具である。
結んだ人のステータスを上げるモノではない。
自己満足や人間性を補完するものでもない。
【神事】をこなすために必要となる【道具】なのである。

何事かを【成す】という【事】に対しての【慾】に自分自身の意識を置いているか?
それとも自分自身の【幸せ】に意識を置き、そのために自己の【慾】を満足させようとしているのか?

それが『二線』に分かれる完全な【壁】である。




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