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『カエルがうるさい』

少し前にある米作農家の方のポストに

「カエルがうるさいから静かにさせてくれ」というようなことを書いた紙を入れたものがいた。

多くの人は反射的に「馬鹿じゃないか」と思っただろう。


これほど極端な事例なら人は反射できるのだが、実はこういったことは世の中のあちこちにたくさあんあることであるが、これほど極端でないと人は気付けないのである。



では少し例を変えよう。

ある男が女性に対して

「疲れて休むだけだから」とホテルに誘い込もうとする。

『嘘つけ』と思うだろう。

だが、こういった手法で世界は普通に動いているのである。


屁理屈をこねて「ホテルは本来休むところだから普通のことである」と正論のような「詭弁」を語り、逆に嫌がる女性に対して「疲れて困っている人を放置するのか」という正論のような「詭弁」を語り、目の血走った男を見て「目が血走っているじゃないか」というと「それほど疲れているんだ」と詭弁を弄し、「あなたもつかれているから休みなさい」と善人のふりをした「詭弁」を使い、拒絶する心を詭弁で少しずつ削り取ってゆく。


LGBTという法律も、強引に正義の仮面を被った詭弁を弄してとりあえず「ホテルに連れ込んだ」ところである。

それは「破壊」のための一手であって、それそのものは目的ではない。

そんな「目的ではない」もののためにどれだけ議論を費やそうとも無意味なのであるが、結局は不毛な議論という「詭弁」に誘い込まれて、無駄な議論で時間を浪費している間に社会は壊れ始めるだけである。



孫子曰く『兵は奇道なり』である。

相手の戦力を「一見弱そうに見える」兵で攻めて逃げておいて主力を誘い出し、空いた本陣を本体が攻める。

要は「見せ方」の問題である。

様々な「見せ方」を弄しているだけであるのに、それに引きずられてしまっているというわけである。


世界の行く先は「破壊と統一」であり、そこまでの過程は「過程に過ぎない」のである。




だから【問答無用である】

「問答」とはたんなる手段であって「目的」ではないのに、「問答」に囚われて「目的」を見失う。


心・口・意が「一致しない」ものを見抜けないのは、自らの「不一致」を『許している』からである。

だから、いつまでも「詭弁」に弄ばれるわけである。




前回、選挙が行われた後、次に選挙が行われるのは三年後であった。

だから「この三年で様々な事を強引に進める」ということが、少し考えればわかるはずなのだが、そんなこと「しない」と高をくくっているから、様々な事が強引に進められてからあわてて文句を言うのである。

そして、まだしばらく時間はあるからどんどんといろいろなことを進めていくだろう。

何を?

それは現首相が就任時に語った「グレートリセット後の未来に向けて」である。

それが「目的」なのだから、そのための様々な手段を講じるのは当然である。

そして、前回の選挙で『三年間』という自由に使える時間を彼らは勝ち取った。

「ちゃんと選挙で勝ち取った」という『大義名分』を持っているのである。

そして、この「三年」という期間、彼らは『問答無用』で事を進める。


だから、いくら「問答」をしても無駄である。



どんなに言葉と行動が美麗でも、その「意」が「悪」なら必ず「悪」に行きつこうとする。

だから確と『意』を見抜くことである。

それを捉えることが出来るのは『五感』のみ。

その『五感』が捉えた情報を正しく「識別」出来なければ有耶無耶になるだけである。


日の鏡(右脳)と月の鏡(左脳)の『どちらも』きれいに磨かれていなければ、正しく映らないのである。

五感を研ぎ澄まし、それを正しく認識、識別して結果を出して反応し行動してゆく。


そして、自分自身の行動の柱(指針)が何なのか?

それがなければ、心はすぐにぐらぐら揺れて、ただただ周りに流されるだけとなる。


そうやって自分自身が出した答えに絶対の自信を持たなければ、「奇道」「詭弁」に弄ばれるばかりである。



しかしながら、「カエルがうるさいから静かにさせろ」と思っているものは、おそらく一定数居るだろう。

しかも、そんな人が今後「増えていく」のだろうと思う。

そして、そんな考えの人が増えるほど、ひとつの『流れ』というものが出来上がる。

そうやって「正気の沙汰ではない」ことが、増え続けている今日この頃なのである。





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