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【愛】と【情け】~「その人のために尽くしてきたのだから・・・」という強引な正義の論理で穢れを湧かせる人々


いくら人のためを思っての行動だからといって、それが即人のためになるものではないことぐらいわかりそうなものであるが、自分の「思い」がかなわなかった、届かなかったからといって、それがわからないほどに感情をこじらせてしまう人々の多いこと・・・

「人のため」という利他の精神は一見すばらしくは見えるが、実のところそれは「詭弁」であり、結局は「自分の思い」を遂げるのが主たる目的であり、その思いに「人のため」という『仮面』を被せているにすぎないわけである。

「人のため」の思いと行動が何でも正当化されるなら、ストーカーは正義となる。
彼ら、彼女らは「あの人のため」という一見「利他的」な思いを行動原理としているが、その本質は「あの人のために私だけが・・・」という「私だけが」が本質なのである。



昨今、そんな偽りの正義を振りかざし、自分の中に湧いた「感情」のはけ口として「正義」を語る輩が横行している。
自分の中に巣食う『闇(病み)』を吐き出すために、誰かをターゲットにして正義の名のもとに『悪(灰汁)』を湧かせている。

自分の利他的な思いが届かなかったからといって、逆切れする「ストーカー」のような者がこれほど多いとは・・・

振られた者が腹いせに暴れているようなものである。
交際していたころの写真や情報をばらまいて、正義を語る輩というのは始末に負えない。


結局、『愛』と『情け』の違いがわからぬまま、自分の中に湧いた『情』に振り回され、『愛』というものからどんどんかけ離れてゆく。
そして、同じ『情』を持った者同士が絡まり合っていく様は、蔦草同士が絡まり合ってゆくのを見ているようで、気持ちが悪くなってくる。

『闇(病み)』を抱えた『情(感情)』を心の中に抱え続け、ふつふつと醸成させたものが噴出しているといったところだろう。


「手放し」「断捨離」と言いながら、それだけはなぜか後生大事に抱え込み、手放すことなく握りしめ続け、はけ口を見つけるや否や一気にほとばしり出る。

それを【穢れ】というのである。


正義の仮面を被せようと、穢れは穢れでしかない。
それを誰かに押し付けて、誰かを汚して自分の汚れを無かったことにしようとしても、根っこに穢れがある限りそれは湧き続ける。



自分の中の『情』に向き合い、『情』の根源であるところまで振り返り、解決して手放せたものは幸いである。
『情』に振り回され自分を見失うことはないだろう。

ここから先、まだまだ人の『情の闇』は湧き出してくる。
根源にある『腐れ』が消え去るまで、湧き続けてくるだろう。
誰かに擦り付け、誰かに投げ当てても、それは湧いてくる「枝葉」でしかない。
根っこがそこに在る限り湧き続ける。

それに気付ける者は幸いであるが、自分の情に振り回されてそれどころではなくなるだろう。
「正義」という麻薬に浸かりながら、「悪(灰汁)」を湧かし続けて気分よくなっても、時が過ぎれば後悔の大波が押し寄せる。



「思い」とは湧いては消える泡の如きものであるのだが、握って離さぬために「泡」は「玉」となり「思い」は「重い」ものと変わりゆく。
つまりは「自分の思いばかり見つめて」いるから、「人の思いに気付けない」のである。
思いが異なれば結ばれぬ。
それが当たり前のことである。

それがわからぬ愚か者がこれほど多いとは驚き以外の何ものでもない。

「自分の思いは利他の心、だから正義であり、それを受け取らぬは悪である」

そのような振る舞いとなるのである。
まるで「ストーカー」の論理そのもの。


それがこれからもまだまだ湧いてくる。
八岐大蛇の大禍のひとつ『飯綱(いづな)の大禍』
「愛」だと思っていたものが、「情」によって裏返り、「恨みつらみ」となって湧き立つ。

「愛」には裏表などない。
裏がある時点で「情」である。
「愛しているという自分の思い」が「愛されなかった自分の思い」へと裏返ったに過ぎない。
どちらも「自分の思い」であり「愛」などではない。

そして「裏切られた」などという詭弁で自分の心を静めているにすぎない。



多くの人は心の中に『闇(病み)』を抱えたままであり、そこを刺激されればすぐに『闇(病み)』が沸き立つ。
日頃平然としているようでも、心の中には『闇(病み)』があるから、いとも簡単に刺激され操られてゆく。
そして『正義』という仮面を被せて『悪(灰汁)』を正当化させてやれば、喜んで心の闇をぶちまけてゆく。


思うつぼ・・・である。




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