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【病】という『呪い』



鬱蒼と生い茂る木々や草々の中で様々な生命が息づいている。


以前、畑をやっていた時に、鬱蒼とした雑草の中で野菜を育てていた。
そこには様々な虫やカエルやトカゲなどが息づき、野菜に群がるはずの虫を制御してくれていた。

そんな中で野菜は「日の当たらない」状態で、スーパーで並んでいるようなものの育ち方はしない。
だが、スーパーで並んでいる野菜のような「朽ち方」もしない。
「腐ることなく枯れ行く」ように朽ちてゆくから「食べられる時間が長い」わけである。



明るいは正義、暗いは悪
そんな適当なイメージだけの判断で雑草は抜かれてゆく。
そして「護り」の無くなった野菜に「農薬」が撒かれ防護する。

栄養を与え肥え太り、見事な野菜が出来上がる。
だが腐る。
日持ちも悪い。



何が善で何が悪か・・・という『定義づけ』
それが『呪い』の正体



「鬱」を『病』と人は言う。
勝手な思い込みで人は判断する。
「鬱は暗い」ゆえに「悪」
「悪」ゆえに「闇(病み)」
明るいという「善」の反対側だから「悪」


そうして人はどんどん思いを感受する「襞(ひだ)」が失われ、つるっつるの感受性の「琴線」には何物も触れることは無い。

『鬱蒼』とした心の木々草々の陰で『何が息づき生育されているか』など見えないから見ることもない。

『鬱蒼』とした心の襞が「何を保護」しているかなど、見えないから見ることもない。
だから「鬱」を「病」という。


「鬱」を「病」と定義することで、一つの『呪い』が発動されている。
「保護」し「育成」しているものを『否定』するという『呪い』である。

だが、つるっつるの感受の琴線には何も引っかからず、感受の音色を奏でることもなく、ゆえに識別もされない。



『岩戸隠し』で【天照皇大神】を隠した人のつるっつるの感受性には、誠(真琴)を照らす(鳴らす)明かり無く、呪い放題なのである。


「鬱」は「病」であるという。
そして、「鬱」の原因は「ウィルスの遺伝子」であるという。
そして「鬱という病を治す」という「呪い」が発動されるとき、この「ウィルス」がターゲットとなる。
そうして人は「鬱蒼」とした心を無くす。


心の襞を無くした人は、さらに「つるっつるの感受性」へと進みゆく。


「心の襞」という「防護」を無くした人々は、痛みや傷をまともに受け行く。
だが「防護は悪」である。
だから「感受」をさらに鈍らせて「麻痺」させる。
それが「治療」という「善」

「防護」するものを「悪」とし、「麻痺」させるものを「善」とする。

人はこんな【呪い】の中で生きている。


熱が出るのも咳が出るのも鼻水が出るのも「防護」であるが、人はそれを「病」とし「悪」とする【呪い】の中にある。
そして、そんな【呪い】ゆえに世界は大騒動になっているわけである。

はや「岩戸」開かねば大変なこととなるのは明白なのであるが。


「岩戸開き」と称して、どこかの神社へ赴き「儀式」を繰り広げるひと。
「儀式」という「神奉り」の【呪い】に囚われた人々。



【呪い】とは『言葉』である。
兄の言葉に付き従わざるを得ない幼き弟妹のように「従順」させる『言葉』
イブにリンゴを食べさせた「蛇の言葉」であり、神話の物語であり・・・
それらの『言葉』で「従」と成すが【呪い】

【呪い】とは感受した事実を「曲げる」もの。
感受する「日の鏡」の肖像を受けるのは、言葉である「月の鏡」
その「月の鏡」の表面を歪め、映りを歪める「言葉」が【呪い】


月の鏡は水鏡
心の水面の凪(ナギ)と波(ナミ)
波(伊邪那美)鎮めねば清からず
岩戸閉めれば言波(ことば)無く
彩の無き言葉のみ
凪波となりて誠(真言・真琴)を映す(鳴らす)


呪いを解けぬから「病み(闇)」の渦に巻かれて右往左往することになっている。


鬱蒼として陰りを創る心の襞は「天照大神」の「光」であるのに、それを「病み(闇)」とする愚かさ。
つるっつるで麻痺した感受の「真の闇」の中では、誠の光はわからぬのであろう。


やがて・・・
人を殺しても「なんとも思わない」つるっつるの感受性へと「進化」してゆくだろう。



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