【覚醒】や【目覚め】の定義

朝 目覚ましが鳴って眠りから覚める。
そのやかましい目覚ましのベルを止める。
そして、再び心地よいまどろみの中へと戻ってゆく。
だが「起きる時間」にはなっていることはわかっている。
そこで
「朝だぞ」
と、誰かを起こしにかかる。
だが布団から出ようとはしない。
まどろみの心地よさの中で再び「夢」の続きへと自らを誘う。


誰かの「朝だぞ」という声で朝が来たことを知る。
目覚ましを消した誰かの声・・・
だが再びまどろみの心地よさの誘惑に負けて自らを夢へと誘う。
目覚ましを消してまどろみに戻ったその者のように、自らも「朝だぞ」という言葉をかけて誰かを起こし、自らは「夢の中」へと戻ってゆく。



【覚醒】や【目覚め】という言葉ばかりが飛び交う世界ではあるが、その言葉を発した者の大半は再び「まどろみの中」へと戻ってゆく。
そして、まどろみの中で『寝言』を言い続けている。
「自分は起きている」
という言い訳のような夢の『寝言』をまどろみの中でつぶやく。

それは
「誰か先に起きて朝の支度をしてくれ」
という想いを言葉の裏に張り付けて「朝だぞ」という言葉だけが伝言ゲームのように発せられてゆく。


朝の支度を終えても「何処へ何をしに出かけるのか?」がわからない。
だから起きるに起きられない。
とりあえずやることと言えば「朝だぞ」という言葉を『前例』に倣って発するしかない。
布団の中にうずくまりながら、もし誰かが支度を始めたら、自分も真似して支度を始めようという感じである。


行く当てもなく目的もなく人は「起きる」ことはない。
仕事をするとか遊びにいくとか、そのような目的がなければ布団から出る意味はないからだ。


そもそも
『何に目覚めたか?』
という自覚すら無いだろう。
ただ「朝だぞ」という【声】を聞いた・・・・
だから「目覚めた」と。


【目覚め】とは
「自分が何処へ行って何をする」
ということを理解していなければ意味が無い。
誰かの後をついていっても、それが自分の「目的」なのかどうかは別物である。
自分が行くべき場所、自分がするべき目的がわかって初めて「起きる」ことが出来るのである。
つまり【目覚め】とは
「自分が進むべき道」へと行動を開始することなのだ。

だがそれは
「今までのような道」
ではないということ。
今までと同じような道を通るなら、それは今までと同じ「眠りの中」である。
二度寝して再び「夢の中」へと帰っていっただけ。
「朝だぞ」という言葉を発しただけで、再び二度寝を始めたのである。


目覚めても「目的」がない。
でも二度寝はしたくない。
だから「遊ぶ」ことばかり考え始める。
それは「二度寝しないため」に目的を探すようなものだろう。
二度寝の心地よさの誘惑に負けない「遊び」
そんなものを躍起になって探す。
布団の中でまどろみながら、あてもなく思考を巡らせる。
二度寝の誘惑と天秤にかけながら、その誘惑を超える誘惑を考える。



真の【目覚め】というものは
『寝てなどいられない』
ほどの強烈な【炎】が胸の内に燃えさかる。
行くべき場所へ『行きたい』という強い衝動。
やるべき目的を『遂げたい』という強い衝動。
そんな【衝動】に突き動かされるのである。
『寝てなどいられない』
というほどに・・・・・・

【衝動】に突き動かされ、【衝動】に導かれ、考えるより先に身体が動く。
それほど強い【衝動】なのである。



真に目覚めた者とまどろみの中の者との間には、歴然とした差異がある。
それがわからぬうちは、真に目覚めてはいない。
自分の行動の真ん中に、かつては無かったはずの【衝動】が有るのなら、何も考えずとも【衝動】に身を委ねればいいだけである。
だがその【衝動】が無いのなら、二度寝の夢へと戻っているだろう。
起きて遊びに出かける夢を見ているのだろう。


その衝動に身を任せることは、かつての自分との決別である。
目覚めて行動を始めるには、かつての自分との「決別」という『支度』をすることになる。
その支度を終えて出かける『覚悟』をするのが【悟り】というもの。

  • 心にしっかりと柱が立つという忄(立心偏)

  • 心を言葉に変えて意味(道)を成すための

  • 天地の間に為すべき『実』を実らせる五(ご)

身・口・意が一致した三密の姿が【悟り】である。


【情熱】無き者目覚めに非ず
【覚悟】無き者覚醒に非ず


未だ二度寝のまどろみで見る「夢の中」なのである。



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