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都知事選雑感~石丸氏の風



地元の兵庫県知事の問題がクローズアップされている最中ではありますが、都知事選を通して「選挙」というものを改めてまじまじと見ていた。


そもそも候補者の「政策」を真剣に検討している人は少ない。
「政策」の話はするが、結局のところ「好き嫌い」という感情論が大半である。
また、テレビのお気に入りの司会者やコメンテーターの「顔色」や「言葉」を聞いて、それを自分の意見とする人が多く、それはネットに於いてもおんなじで、お気に入りのインフルエンサーの言葉に左右されながら、だが自分では「ちゃんと考えている」と思っているわけである。

当然、感情的に決めることは悪いことではないが、感情の棘を引っかけられて振り回されているだけならば、それは「自分の思い」ではなく「誰かの思い」に『感化』されているということであり、その『感化』を「自分の思い」と勘違いしてしまっているわけである。
自分の「感情」が揺らいでいるのだから自分の思いに違いは無いが、それは「自分の純粋な思い」ではなく「他者の感情が混じった思い」なわけであり、つまりは「濁った思い」なわけである。

まぁ・・・どうでもいいか。


だから石丸氏が「公約」など掲げず選挙を戦ったことはもっともなことで、どうせ「聞いていない」し「考えてもいない」のだからそれでいいのだろう。
だからきちんと「人となり」を見なければならないと思う。

「どのような人か?」

ということである。


私なりに石丸氏を評すとすると「施策は銀行家のようであり演説は宗教家のようなスピリチュアル的である」と思った。
そして、総評としては「手段の人」という感じである。
選挙期間中、ずっと同じような演説を繰り返していたということであるが、その演説は非常にスピリチュアル的であり、だから「期待感」が高まるわけである。
現実的なことを語れば「夢」を見れないから「期待感」は薄れる。
だから「公約」など語らない方がいい。
だが、施策に関しては非常に現実的で、それはまるで立ち位置が「銀行家」であるところからの視点であり行動であると感じる。
この場合の「現実的」とは「銀行家にとっての現実的」なわけで、だから「数字」というものに非常にこだわっていると思う。
そうなると施策には「商的」な要素で実行されるということになってくるだろう。

だが知事と言うのは銀行家ではない。
ましてや企業家でもない。
法律家でもなく学者でもなく、それら様々な要素を加味して施策を実行する「責任者」である。
数字では「割り切れない部分」というものが多々ある。
「法」などで割り切れない部分も多い。

一つの「手段」が「正しい」からといって、その裏側には必ず「負」の要素が発生する。
だからそんな「裏側」まで気を配れる人であるかということは非常に重要なことである。
銀行家などの立場ではそんなこと考える必要はなく、銀行にとって「善であるか」ということが重要なのである。
だから、そのような意識や視点や立ち位置のままで「地域の長」になるということはどういうことか?
東京都であれば「都」という「組織」にとって「善」であるかどうか・・・・ということになってくるということだ。
「都という組織」とは何か?
それは「何をもって都とするか?」というその人の「意識」である。
この「何をもって都とするか?」というところに人それぞれ様々な『違い』がある。

その「何をもって・・・」が自分と同じであるか?

そんなことこれっぽっちも見ていないだろう。

だから後になって「こんな人とは思わなかった・・・」となる。


「立ち位置」というものを知ることは非常に大切な事。
それさえわかっていれば、どんな言葉を弄されようと間違うことは無い。


石丸氏のことを「手段の人」と評したが、それは都知事選を見ていてそう思ったものであり、だから「都知事」になることそのものも「手段」なのであろうと思う。
では本当の「目的」は何だろうか?
彼は何を欲しているのだろうか?
まぁ、何を欲していてもいいのだが・・・
だが、そこに群がる人々の「欲望」も「手段」や「目的」に加わってくる。

あの「スピリチュアル的」な演説を見ていて「なんか宗教的なものが関与しているのかな?」と思っていたが、「旧統一教会」との接点もあるようだという話があり、「あぁ、なるほど。」と思った。

ちなみに「トランプ元大統領」の支持も旧統一教会がいる。
「Qアノン」などはそれらの関連団体だそうである。
先日、トランプ元大統領が狙撃された直後に何故か「阿部元総理の声が聞こえて・・・」などと阿部さんの名前が出てきたところをみると、その情報自体が彼ら教会が発信源なのだろうと思う。
彼らも日本における「影響力」を必死で取り戻そうとしていることだろう。
石丸氏の票数獲得に貢献しているなら、その実力を目の当たりにさせ得たのだろうと思う。

都知事選は「裏側の組織票」のぶつかり合いであった。
特に「宗教団体」の組織票のゆくえが大きく左右されているわけで、もはや選挙は「宗教組織」がいかに動くかであると思う。
なんとまあスピリチュアルな世界になったことか・・・・・・

だから演説も「スピリチュアル的」であるほうがいい。


もはや選挙は「カリスマ性」や「タレント性」が重要であり、「期待感」を抱かせ得るものが勝つ。
そこに「票田(ひょうでん)」を大量に持った「地主(票主)」が接近し、その「地主(票田主)」たちにも「期待感」を抱かせ得るものが勝つ。
だが、そんな「票田主」たちをコントロールできるのか?
「票田主」にコントロールされまくってしまっているのが今の自民党である。
だが、そうなったのは投票率5~60%という民主主義を放棄した人々が原因でもあるわけだ。
投票率が低ければ低いほど票田主の権力は増大する。
候補者は投票率が低ければ低いほど「組織票」への依存度が高くなるからだ。

つまりは国家を、地域を牛耳っているのは「票田組織」なのである。
そして候補者はタレント。

あとは候補者が「どの立ち位置のタレント」であるかということ・・・


投票に行かない4~50%の人の代表者は「居ない」のである。
国家や地域の施策が偏るのは当然の結果だろう。

タレントをいくら責めたところで意味がない。
決まりきった低投票率が長年続き、それが票田主の権力の定着を生み、結局はそれが淀みや腐敗の原因なのである。

「選挙に行っても何も変わらない」
「いい候補者がいない」
「誰がなっても同じ」

この意識を誰が一番喜ぶのか?
そもそもそんな意識を植え付けようとしているのは誰だ?
言い始めたのは誰だ?

これを「洗脳」と言う。
「呪い」と言ってもいいだろう。

低投票率へ意識を導く言語操作・・・・
選挙前になるとテレビでやたらと流れてくる「街角インタビュー」という名の情報操作。

司会者やコメンテーターやインフルエンサーに「意識」を操作される人々・・・・・
今やテレビ以上に意識操作の多いSNS。
情報の波に溺れ「左脳」に意識を閉じ込められて自分を見失った人々・・・・・


今回の都知事選は、そんな固着したものに少し「亀裂」が入ったように思う。
その意味で石丸氏の貢献は大きいと思う。
その人となりは置いておいて、今回の都知事選で結果的に人々に最も貢献したのが石丸氏であったと思う。
そもそも人となりなんていうものはそう簡単にはわからないのだから。

たぶん、それでいいんじゃないか?

と、最終的に思った次第です。




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