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小説 「姉ちゃんと僕と、僕らのじいちゃん」 最終回

【前回までのあらすじ】すこしずつ、姉ちゃんのいない夏に慣れていく僕は、大学進学をようやく決意した。夕暮れの風を受けて、夏の終わりを知る。


「今日はあさりの味噌汁と太刀魚じゃ。初物じゃからの、元気が出るぞ。ゆうや、ビール飲むか」

 帰ってきた僕を玄関まで迎えに出てくれたじいちゃんは元気な声でそう言った。

「太刀魚にビールはうまいぞ。お前もたまには飲め」

 じいちゃんと僕は食卓を囲んできんと冷えたビールで乾杯した。それから僕はねえちゃんと位牌と写真にもグラスを向けた。

「っかー! うまいのう! 酒がうまいうちは死なれんわい」

「はは、じいちゃんは長生きするよ」本当にそう思った。「太刀魚、脂がのって、うん、うまいね」

「おお、そうじゃろ、そうじゃろ」

 じいちゃんはうれしそうに答えた。

「ね、じいちゃん」

「うん?」

「おれ、大学行くわ」

「そうか、決めたか」

「うん」

「そうか、これから忙しくなるの」

「うん」

「がんばれよ」

「うん」

「未来はこれからじゃ」

「ああ」

 じいちゃんはうまそうにびビールを飲み、太刀魚を食った。あさりの味噌汁をすすり、ご飯を一杯、一粒残さずきれいに平らげた。

 

 テレビがつけっぱなしの畳の居間で、じいちゃんは座布団を枕にしていびきをかいていた。じいちゃんは人一倍酒が好きだけど、飲むと必ず寝てしまう。僕は窓を半分閉め、じいちゃんに肌布団をかけた。テレビはプロ野球の中継で、僕はじいちゃんの横に座り、じいちゃんの赤くなった顔をぼんやりと見つめた。

 それから、窓に目を向け、真っ暗ではないけれど紺色に染まった空を見て、庭に立つまだ青い紅葉の葉を眺めた。

 暁の
 空に輝く
 あやこかな

 僕は唐突にじいちゃんが詠んだ句を思い出した。

 白い病室で、姉ちゃんを囲んで僕とじいちゃんは簡易ベッド(じいちゃんはそれをボンボンベッドと呼んだ)に座り、三人で日の出を見た。朱色に染まる東の空と姉ちゃんを、僕は胸にしまいこみ、その記憶を生涯手放すことはないだろう。

「じいちゃん」

 僕は声をかける。じいちゃんはよく眠っている。

「じいちゃん」

 もう一度声をかける。返事はない。僕は心の中でじいちゃんに話しかける。


 じいちゃん。

 じいちゃんが、ばあちゃんの死んでしまった姿の写真を肌身離さず持つ気持ちが、僕にはよくわかる。

 わしの奥さんだったひとじゃ。べっぴんじゃろ、と自慢げに妻のデスマスクを見せて他人に眉をしかめられるじいちゃんだけど、僕にはじいちゃんの気持ちがよくわかるよ。

 死んだ姉ちゃんをこの家に連れて帰って、一晩中姉ちゃんの傍らで過ごした夜、じいちゃんは酒をあおって、わしも寝んぞ、ずっとあやこのそばにおるんじゃ、と言ったじいちゃんは、そう言った一時間後には今みたいに畳の上でいびきをかいた。

 それから、小便に目を覚ましたじいちゃんはトイレから戻ってくると僕に聞いた。じいちゃんはいつになく真面目くさった顔で僕に聞いたんだ。

「写真――撮るか?」


 息をせずに眠る姉ちゃんは、本当に美しかった。


 ほんとうに、おそろしく美しかった。


「ううん、撮らない」僕は首を横に振った。


 だから僕は、あのとき、姉ちゃんにキスをした。

 じいちゃんが酒を飲んで眠る間に、僕は姉ちゃんの唇にキスをしたんだ。

 写真に残す代わりに。


 昇華した姉ちゃんの心。

 すべてを手放して、精神から解き放たれた姉ちゃんの肉体。

 それらすべてが根こそぎ僕には愛しかった。


 僕には愛しかった。


「おお、わし寝とったか」

 じいちゃんはむくりと起きて、両手で顔をごしごしと擦った。顔はまだ赤かった。

「うん、グーグーいびきかいて寝てたよ」

「カープは勝ったか?」

「あ、どうだっけ?」

 僕はテレビに目をやった。

 

 外では鈴虫が鳴いている。

















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