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らっこと、嫉妬

「昨日さ、友達とらっこの話しててんけど」
梅ソーダを吸いながら彼女が言った。


「らっこ?なんなんそれ」
「いや、その子がらっこめっちゃ好きみたいで2時間くらい話した」

いやごめん、どういうこと?


試しにどんな話だったのかと聞いてみる。そしたら、らっこの進化がめっちゃ可愛くて、貝殻を割る石のためにポッケができたらしい、らっこって漂流せんためにみんなで手繋いで寝るらしい、みたいな話を楽しそうに話した。昨日の夜11時までらっこの話してたんだよねと言った。ね、らっこ可愛くない?と自分の子供が可愛いみたいなテンションで彼女はらっこの話をした。


あまりにも彼女が「らっこ」を連発するので「ちょっと1日に聞くらっこの回数超えてるんやけど」と言って私も笑った。あまりにも彼女がらっこらっこと言うので他の名詞に聞こえてくる。らっこらっこらっこ。ゲシュタルト崩壊して二人でまた笑った。


らっこの話2時間できる友達ってどんなんだろ、とふと思う。
私は友達とらっこの話もしなければ、きりんの話もカバの話もしない。せいぜい飼ってる猫の写真を見せて「うちの子ほんまにイケメンやねん」と自慢するくらいで。さすがにらっこの話はこれまでしたこともないし、これからもないんちゃうかな、と思った。誰とらっこの話できるやろ、と思って何人か友達の顔を浮かべたけど、やっぱりらっこの話を2時間できる友達はいなかった。


彼女はうちの家の近くのカフェで梅ソーダを2杯おかわりした。神戸から3時間かけてうちの町に遊びに来て、会うなり「あんたほんま何してるん?まじで移住してるやん」と笑いながら、海とか久々やわーと手をいっぱいに広げた。そこに一人で車乗って会いに来てらっこの話してるあんたも充分何してるん?の対象やけどなと思った。言わなかったけど。


私は友達と異性関係の話や仕事の話をすることが多い。障害の話になるときもある。その話には意味というか、明確に相手に届けたいメッセージ、みたいなのがあって、どちらかが相手の話を傾聴するスタイルになる。私が相手に届けるメッセージは自己表現でもあって、そこには相手に時間をもらうなりの価値が必要で、この瞬間という作品を創る、みたいな、ちょっとそんなニュアンスもある。


そんな自分が嫌とかではない。私は人と価値観や身のうちをあーだこーだ話をするのが好きで、実際に彼女とも「周りが結婚したいってめっちゃ騒ぐんだけど、私は結婚は手段やからそんな強くは願望なくてさ、でもその空気に乗らなあかん感じで。」「あー、反発するより同調しといた方が自分もカロリー使わんしね」と解決するでもない日々のちょっとした擦れを慰めあう時間が心地よかった。自分の擦れを共有して浄化したり、自分の意思になりかけてる小さな粒子をアウトプットすることで意思として確立させたりする。


でも、らっこの話をする彼女を見て、正直妬いた。そこに何の意味もいらなくて(いやらっこ好きの友達からしたら大事なテーマなのかもしれないけど)、らっこに2時間も費やせる豊かさがあって、それでその会合が終わったとしても、また会おうねってなるんでしょ?その信頼関係がめちゃくちゃまぶしかったのだ。なんというか、そこに責任や価値みたいな言葉は必要なくて、ただただその瞬間のファニーを共有できることが。


「友達が北海道なら海にらっこ泳いでるって言うからさ」
「へーそうなん」
「私見たいかも!って言うたら、私は見たくないって言われてん。野良犬見に行くみたいなことには興味ないって」
「野良らっこってこと?」
「そう、のらっこっていうんやけど」


のらっこ。なんなんそれ、と再び思った。らっこの話の中で新たな「のらっこ」という二人だけの造語ができて、その言葉遊びをする大人が、子供のようで、本当の大人だなと思った。のらっこ、なんかぎゅうっとしたくなるな。


らっこの話をする友達の話をする友達との会話はすごく楽しくて、さっき店員さんが温め直してくれたクロワッサンは冷めてしまっていた。なんというか純粋に楽しいのだ。探究心に近い楽しさではなくて、遊びとしての楽しさ。彼女は遊びを知っていた。遊びを共有する友達がいるのだ。


彼女にらっこの話をしてもらったので、私もその時間はらっこの話ができた。もう5年分くらいの「らっこ」を聞いたので充分な気持ちになり、「らっこの話、今度noteに書くわ」と言った。


遊びを知っている大人は豊かだ。それを教えてくれた彼女には感謝をしているし、またらっこでもきりんでもカバでも、バナナでもいいから、話を聞かせてほしい。


私も彼女にらっこの話ができるような大人になりたい。彼女のらっこの話をnoteに描出してしまう私はまだまだだな、と冷めたクロワッサンを口にした。

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