見出し画像

休日だけ、パン屋

最寄りのパン屋に行った。
最寄りと言っても電車で30分かかるので、パン屋に行くことは休日にしかできない営みとなった。


汽車で海沿を30分。日を浴びて海がキラキラして見える。それを子供のように窓にしがみついて眺める。時にシャッターを切る。
トンネルを抜けると、少しだけ山道になって3頭の鹿を見た。うちの町は獣害駆除対策が遅れて、隣接地域から鹿が逃げてくる場所。その数、人口よりも多いというのだから笑ってしまう。


先日、職場でここのパン屋を紹介された。彼女には美容室も紹介してもらっている。彼女と特別仲がいいわけではないが、美容師さんごしに聞く彼女の素顔に、ほー、とか、へー、とか思ったりする。


彼女曰く、「とにかくクロワッサン!できたら焼き立てて」「あとオーツミルクのカフェラテですね」とのことだった。
私はいつもパン屋に入ると挙動不審になってしまう。小麦とバターが焼ける香りに包まれて、気持ちが1トーン上がってしまい、何を食べるのか選べなくなるのだ。


なので彼女の前のめりな助言に救われた。クロワッサンとオーツミルクのカフェラテ、あとブルーベリーのマフィンをイートインで。

「クロワッサンはあと50分かかります」

焼きたてが食べられる喜びと一緒に、ほかほかにあたため直してくれたマフィンを食べながら、その時を待った。50分の待ち時間を過ごせるという豊かさに大人な気分になった。


ブルーベリーの甘酸っぱさとクリームチーズのコク、ぽろぽろと中身が崩れてしまうが、それらが必死に生地にしがみついている。生地はほんのり甘くてやわらかく、卵とバターの香りがした。


鞄に入れてきた小さなリングノートと0.4ミリ(この細さじゃなきゃ嫌!)のペンを出して、エッセイの下書きを書く。毎晩日記を書くからか、パソコンに文字を打ち込むよりもノートの方がペンが進むのだ。時々ペンを置いて、江国香織さんのエッセイを読む。物語を行ったり来たりして、ちょっとした旅をした感覚になる。その小さな物語の行き来が、私はすごく好き。


クロワッサンはホットコーヒーと一緒に食べることにした。

「ハムとチーズが入ったものもありますよ」

という言葉に一瞬心が揺らいだが、先日の彼女の言葉に忠実になろうと普通のクロワッサンをいただくことにした。


サクッという音と共に、じわっと口の中に広がるバターの甘味と小麦の香り。何層にも織り交えたその手仕事に、心がほわんと満たされる。
一口食べるたびに、パン屋さんに入ったあの数秒の幸せが訪れる。これ以上の幸せはないだろうと思う。


汽車の時間を気にしながら食べて、書いて、読む。なんだかタイムリミットがあると、この時間を”束の間の旅”のように切り取られる気がして、よりその特別感や幸福感が増す。


休日にしか行けない、とか
焼きたてのクロワッサンは50分待ち、とか
1時間半に一本の汽車に合わせて帰宅する、とか
制限とは稀に、その瞬間の特別感を作り出すものになり得る。


この時しか、この場所でしか。
私にとって、休日にパン屋さんでクロワッサンを食べるというのは、特別でこの上ない贅沢な営みなのだ。


そういう小さな特別を、手元にそっと置いておける大人でいたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?