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「お母さん、私子供やりなおすね。」

(※3年前の記事をリライトし、後書きを追記しています。)

「お母さん、私子供やりなおすね。」


25歳秋、そう母に告げた。

"子供" がいつ頃を指すのかも、何を指すのかも知らないけど、とにかく私は自分の記憶の中に存在しない "子供らしい子供" を追体験することを母に宣言した。

それが自分への癒しのプレゼントであり、母と子の自立であり、私自身がこれからの人生を歩いていくために避けて通れない道だと思ったのだ。


私が "子供" だった頃、「私は子供らしいか?」なんて気にしたことはなかった。それは今の私が「大人らしいか?」という答えのない問いをすることと同じことだ。

でも、あの頃を振り返ると "大人にならなければならなかった私" は確かに存在したのだ。


それは家庭の中の役割であったり、役割が引き起こす言動を振り返ると一目瞭然だ。私が幼いままの姿でいられる環境に身を置いていなかったことを、今なら客観的に見ることができる。


ずっと誰かを守らなきゃいけなくて、誰かと誰かの接着剤にならなきゃいけなくて、 "家族” が機能しない家族を必死に "家族” にしようと毎日必死だった。


その役割を任命された訳ではない。だけど、あの頃の私にとって、家族は私の世界のすべてであり、私そのものだったのだ。

役割を持つことで愛されている感覚を覚えて、役割を持つことが生きる術になった。そして、そこに感情やわがままは共存しない

そうして、ごく普通の顔をして、無自覚的に、"子供らしい私” は消えた。


少し話を変えるのだけど、大学の卒業論文は「共食の離脱と摂食障害の関連性」について書いた。

共食から離脱することで家族という世界から抜け出すことになる。あるいは家族からの疎外感を抱いていると、結果として共食から離脱する。


数年前にそんなことを考えていた。


あの論文を書いた頃から変わらずに思う、共食と摂食障害は密接に関わっている。


小さい頃は「唐揚げ何個食べたか勝負ね!」と弟と競い合って唐揚げを頬張ってた。お母さんが作るコロッケとグラタンがだいすきで、何故かうちの家族は揚げ物に醤油をつけて食べるのだ。


そんな家族らしい食卓から、私は摂食障害という手段を取って離れようとしたのかもしれない。

夜ご飯では副菜と少しの雑穀米しか口にしなくなって、すきな食べ物は湯豆腐になった。お母さんが作ってくれたお弁当は教室のゴミ箱に捨てて、学校の自販機にあるこんにゃくゼリーを飲んでいた。


かと思えば、家族がいないときを見計らって冷蔵庫の奥の残り物を身体につめこむようになった。解凍していない冷凍食品や三角コーナーの生ゴミを食べた日もある。


こんな "大人らしくない私” がとんでもなく憎くてこれまでに感じたことのない恐怖に襲われた。


私の場合、本能的に家族からの離脱を望んでしまった理由は家族が嫌いだからではない。むしろ愛おしさゆえに生まれてしまった窮屈な役割でしか生きていけない自分に限界がきたという方がしっくりくる。


もちろんその頃の私はそんなことを客観的に分析できる余裕もなく、ただただ「自分は恵まれて、愛されて、”家族”があるのに何でこうなってるんだろう」と自分自身を責めるしかなかった。


私の家族が私の正解で、そこしか知らなくて、私がその正解を否定してしまったら、今にも崩れそうなこの居場所を潰すことになりそうだった。

"大人になるしかなかった私”は、この家族にいる私の中で死んだ。


そんな子供時代を過ごした私は、"私”を知らないまま年齢欄に書く数字だけが増えていった。

正解と不正解がある世界が心地よくて、そこに染まり切ること(過剰適応)が上手だった。上手、というよりそうするしかこの世に存在する方法を知らなかった。


相手の意見を聞いて、聞かずとも察して、自分を後回しにしてでも相手のために行動すること(自己犠牲)が上手だった。上手、というよりそうするしかこの世に存在する方法を知らなかった。

どこを見渡しても自分がいなかった。とっくの昔に、どこかに置いてきてしまっていた。


ひとりでいることが何よりも不安だった。自分がどこにいるのか、私が誰なのかわからなくなるからだ。私の中は空っぽで透明だ。

自分が空っぽであることを誤魔化すように他人や食べ物で自分の空洞を埋める。要るものも要らないものもわからないのに、とにかく何でもかんでも私の中に取り込んでは息をするのが苦しくなった。


「それは自傷行為だよ」「 自分にやさしくね」「もっと自分のために行動していいんだよ」


頭では理解できる。でも、言っている意味を体感として知らない私は、何をしたらいいかわからなかった。

この世からもともとなかった存在にならないかと毎日願っていた。


摂食障害が寛解しても、自己犠牲的で自己否定的な考えや完璧主義が完全に消えた訳ではない。もとからの気質や小さい頃から積み重ねてきた性格が180度変わることなんてないのだ。


何より困ったのは、対人関係で人との距離のとり方や自分の出し方がわからないことだった。カメレオンであるがゆえに、誰かと躓きながら向き合って関係を築くという経験が欠落していた。


そんな不安定な状態で何とかここまで生きてみた訳だけど、小さなガタを帳尻合わせすることに限界がきた私は25歳の夏、本格的に心を壊した。

実家での療養中に、ようやく自分の特性(完璧主義、理屈っぽい、気にしがちとかとか)を含めて私なんだと痛感した。この特性を変えたり抑えたりすることよりも、このままの私のままでいられる場所を探したほうが話が早いのかもしれない。


自分を変えるのではなく、身を置く場所を変えて裸の私で向き合うのだ。向き合いたい人と向き合って、一緒につまずいて、一緒に紡いでいくのだ。


これはきっと、心の置き場所も同じ話だ。置いてきぼりにされた "子供らしい私" を適切な場所に置いてあげることが、過去の呪いから解かれる方法だと直感的に思った。


過去じゃなく今を生きるために、過去に置いてきた私を連れてきてあげよう。

過去の私に仮面を被せたまま大切な人と時を過ごすんじゃない。今の私のままで大切な人と向き合えるように、過去にかかった呪いを解くのだ。

当初は苦しすぎてほとんど記憶と理性が飛んでいたけど、心が壊れたことは呪いを解くきっかけとして働いてくれたのかもしれない。


そんな経緯で、初めて母と私が、私たちについて語った。とっても仲がいい母娘だったけど、これまで私たちの関係性について話したことは一度もなかった。

なんの気なし(風)にリビングのダイニングテーブルにかけると、お母さんも何かを察したのか椅子に座ってこっちを見てくれた。


「あのさ」


このあと5時間に及ぶ対話が、始まった。

「実はあのときのこんな経験が忘れられなくて」
「この言葉がわたしを突き動かすときがあってね」
「今でも自分がいなくなるくらい家族という渦に飲み込まれるときがあってね」

怖かった。


これまでどんな手を使ってでも守ってきた。痩せて食べて吐いて死ぬ気で守ってきた。ずっと良い娘で、優秀でデキる娘で、お母さんに愛される娘だった。それが今壊れようとしている。


「お母さんそんなこと言ってたんだね、気づかなくてごめんね」「わかちゃんのこと、たくさん傷つけちゃってたんだね」
「・・・・・」
「わかちゃん、今お母さんが傷ついてないか気にしてる?」


その瞬間、涙が溢れ出て止まらなくなった。


怖いよ。25年間守り続けてたものが壊れそうだよ。いやだよ。壊れないでよ。やだよ。ごめんなさいお母さん。


「わかちゃんあのね、小さい頃からね、わかちゃんが一番いい子だった。でもね、一番何を考えてるのかわからない子だったよ。」


いちばん、なにをかんがえてるのか、わからなかった?


そうか、そうなのか。お母さんはとっくにわかってたんだ。私が本当の顔を見せてないことなんて。


私が守ろうとしていたものはとっくに中身のない空虚なものだったのかもしれない。そして仮に壊れたとしても、もうどうでもいいものなのかもしれない。


「・・・お母さん、傷ついてない?」
「うーん。考えさせられるけど、傷ついてるわけじゃないかな」
「・・・わかった」

「話してくれてありがとうね」
「ううん、聞いてくれてありがとう」

「・・・・お母さん、わたし子供やりなおす」
「うん、たくさん子供しよう」


よし、たくさんワガママ言って、たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん怒って、”子供” やってやる。


今はお母さんのお弁当は嬉しくて、一人になりたいときもあって、たまに約束を破って怒られたりとかして、姉妹喧嘩をして、弟に頼ってみたりもして、お父さんにプレゼントを送ってみたりもする。


私にとっては初体験ばかりの日常だ。
この家で安心して "子供" をやり直している。

心の未来である今の私へ、楽しみにまっててね。


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あれから3年経った私、どうしてる?


あれから3年が経とうとしている。
私はずいぶんと子供になった。今はたぶん多感な高校生くらい。



あれだけ自己犠牲が得意だった私は、自分が1番大切に思うようになった。自分第一で日々生きている。とは言っても、そんな自分と他者の関わりがまだ苦手なようで、自分の思い通りにならなくて怒ったり泣いたりする時がある。実に子供だ。でも、怒ったり泣いたりできるようになったのはとっても成長。



あれだけ頑張ることが得意だった私は、自分が1番楽になる方法を探すようになった。同じ時間を生きるのに、目的もなく無理する必要なんてない。必要に応じて他人や専門機関に頼って、自分だけの力じゃなく松葉杖やギブスや車椅子なんかをたくさん貸してもらいながら何とか立っている。それでいい。できるだけ頑張らずに生きていたい。



あれだけ過去が怖かった私は、未来を恐れるようになった。過去にしがみついて今を生きられなかった次は、変わらない過去を認めて未来を決めていくことにもがき苦しんでいる。過去は変えられないし、今もすぐには変えられない。今の延長線上に未来があるとしても、その不確実性を受け止めるほか生きる術はない。私はまだまだ何かに恐れて生きている。



3年経つと母との関係性も変わった。言葉で子供の頃のトラウマをぶつけるときもあるし、母もそれを受け止めて対話してくれる。持病のことも理解を示してくれるようになり、私も母もお互いを一つの個体として扱うようになったと思う。互いの人生は異なるもので、でも大切で思いあってる。ドロドロに溶けた愛情ではなく、そっと隣にいてくれる安心感を抱くようになった。それが今はとても心地がいい。



ちょくちょくフォロワーさんから「顔つきが穏やかになった」と言われる。自覚はないけど、それほどの変化があったんだと思う。過去は過去においてきて、私は人より少し遅れながら自分の人生をやり直している。



子供のやり直しは、確実に私の人生のターニングポイントになったと思う。それほど私の環境、価値観、周囲の人、過去の捉え方、いろんなものが変わったように思う。止まっていた時間を動き始めるスイッチになってくれた。



まだまだ未熟で大人になりきれていない私、もっと自分を生きていくんだぞ!



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