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精神の病気は治らない

自分がいまどういう状況にあるのか、よくわからない。

テンションが高くなり、気分がよくなり、「お、これは軽躁状態か?」と思った数日後には、布団から一歩も動けないような体調になる。布団から一歩も動けない状態はまだマシな方で、それに加えて不安感や頭痛や希死念慮が付加される日もある。

通常、自分の患っている双極性障害というのは数か月単位で躁と鬱を繰り返すらしいのだが、自分のこれはなんなんだろう。噂に聞くラピッドサイクルというやつなのか。双極性に他の疾患が加わっているのか。全くわからない。こんな状態が15年以上続いている。

わからないが、最近少しだけ理解しつつあることがある。

それは、精神の病気は治らないということだ。

ふつう、医者から「○○病です」と言われると、我々はインフルエンザのようなものを想像する。

病気に罹っている最中はとても苦しむが、治療を受けてしばらくすると、病気に罹る以前の身体に戻る。「回復」という言葉を、私たちはふつうこのような意味で使う。

しかしどうも精神の病気における「回復」は違うらしい。

例えば依存症において「回復し続けることが回復」という言葉がある。

最初この言葉を見た時、自分はよく意味がわからなかった。

「インフルエンザの治療は、回復し続けることが重要です」

などという身体科の医師はいない。

インフルエンザなら、薬を飲んで数週間休んで、大抵の場合は「回復」する。ずっと薬を飲み続ける必要もないし、インフルエンザ当事者の自助グループのようなものに出席し続ける必要もない。

多くの身体疾患は「治る」。予後が悪く完全には治らなかった場合「後遺症が残る」などと表現する。

ところで精神の病気で「後遺症」という言葉を聞いたことがあるだろうか。自分はない。後遺症を抱え続けることがあまりにも当たり前なので、誰も「後遺症」という言葉を使わないのだ。それくらい、身体科の病気と精神科の病気は違う。

精神の病気とはなんなのだろう。身体科の病気とあまりにも何もかもが違うこの病気は、一体なんなのだろうか。

最近、ひとつの言葉を思いついた。

「障害」だ。

例えば交通事故で足を失う。現代医学では、足は二度と戻ってこない。足がにょきにょき生えてくるような薬はない。だから多くのひとは「足がない」ことを受け入れて、リハビリを通じ、車椅子なり、義足なりの手段を用いて、現実に「適応」していこうとする。

「適応」

これは重要な言葉だ。

我々がよく使う

「回復」

という言葉は、失ったものを補填しようとする働き、身体と心を「欠損する前の状態」に戻そうとする試みのことを指すだろう。

しかし「適応」は違う。失ったものを所与として、上の例に例えるなら足がないことを前提として、それでも生きていこうとする試みが「適応」だ。

精神障害は身体障害と異なり、欠損があることが目に見えない。他人にも見えない。多くの場合、自分にも見えない。

だから我々は「これは病気による一時的な状態で、薬を飲んで休めば治るのだ」と考え、「回復」を目指す。

しかし、それは多くの場合、難しい試みなのではないだろうかと自分は思い始めたのだ。

我々が抱えているのは、疾患ではなく障害である。

障害は回復ではなく適応しなければならない。

精神疾患というマイナスをゼロにするのではなく、

そのマイナスを引き受けた上で生きていく。

その「適応」の試みが重要なのだ、と今の自分は考えている。

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