恋愛の暴力性
恋愛の加害性について考えている。
通常、恋愛とは「愛し合うこと」みたいに語られる。
愛することは良いことだし、愛されることも素敵なことだ。だから現代人の多くは、基本的に恋愛を良い営み、美しい営みだとみなしていることが多い。
しかし「愛し合う」の前段階には、様々なプロセスが存在する。「愛し合うこと」ことは恋愛の最終段階であって、そこに至るまでの道のりは決して美しいものばかりではない。
恋愛の第一ステップは、まず舞台に上がることだ。
容姿を磨き、体形を整え、勉強や仕事をがんばって社会的な地位を築く。
他の異性と自分を差別化しようとするプロセス、まずそれが恋愛の第一段階に来る。
恋愛の第二ステップは、誘惑だ。
意中のひとが見つかる。見つかったら、その人に対して自分をアピールする。求愛のダンスを踊る鳥や、メスにプレゼントを運ぶ昆虫を連想してもらえればよい。メッセージや、プレゼントや、笑顔やしぐさで、相手の心を掴もうとする。誘惑する。
恋愛の第三ステップは、契約だ。
日本では多くの場合、「告白」というプロセスを経て交際関係が成立したとみなされる。もちろんその前にセックスやら何やらを挟む場合もあるが、婚姻契約を含め、「契約」のプロセスが存在しない恋愛の形はとても希少だろう。
差別化し、誘惑し、契約する。
恋愛の各プロセスをこのように分割してみると、その営みはとても新自由主義的で、市場的だ。
差別化は商品開発、誘惑はマーケティング、契約は営業と言い換えることもできるかもしれない。「恋愛」に血道を上げる善男善女の営みは、都市部のオフィスで日々営まれるビジネスパーソンたちの業務とほとんど変わりがない。
恋愛が新自由主義的ビジネスである以上、そこには勝者と敗者が生まれる。
恋愛における「モテ」「非モテ」という言葉は、新自由主義的ビジネスにおける「勝ち組」「負け組」とほとんど同義だろう。差別化、誘惑、契約のプロセスを成功させた者たちと、成功させることのできなかった者たち。勝者と敗者がそこにはしっかりと存在する。
新自由主義の暴力性を指摘する声は、既に多い。
それは近年で言えば「ウォールストリートを占拠しろ」運動であったり、日本でいう「派遣切り闘争」であったり、歴史を辿れば労働争議、社会保障運動、共産主義革命というものもあった。
しかし恋愛の暴力性について糾弾する声は、今のところあまり上がっていないのが現状だと思う。
これから先、10年後、20年後はどうなっていくのだろう。
恋愛も資本主義と同じく、糾弾の対象とされていくのだろうか。
恋愛という営みの暴力性について、我々の社会は未だに態度を決めかねている。
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