窓

生きたい私が死のうとした日

死にたいと、思っていた。消えてしまいたいと、思っていた。

そんな私が、生への欲求を強く自覚した出来事。

記憶が正しければ、小学2年生のころの話だ。
何故その日だったのかはわからない。もう覚えていない。しかし、その時期に、死のうと行動を起こしたことは覚えている。

経緯

勉強ができて、誰とでも仲良くなる良い子。何にでも懸命に取り組む子。外ではそんな評価だった。

でも、家では出来の良くない子だった。特に、朝から起きることとお手伝いが苦手で、家では大して役に立たなかった。ついでに、(何を根拠にか今となっては分からないが、)自分は両親の悪いところを受け継いだと思い込んでいた。

だからだろう。自分は母親にとって要らない子だと思ったのは。家で役に立たないのは、母の役に立てないのと同じことだ。

今思えば、本当に何もできなかったわけではない。それでも、その時は母の役に立っているか、が大切な尺度だったのだろう。

「母は大変な思いをして育ててくれているのに、いつも怒らせてしまう自分に、生きている価値はない」

そんな結論にいきついてしまった。

この結論が出たのは、その日が初めてではなかった。けれど、何かのスイッチが入ったのだろう。私は死ぬために行動を起こした。

行動

2階の子ども部屋には出窓があった。ガラス戸の外側に網戸があるタイプのものだ。だから、まずは窓に上った。

次に、ガラス戸を開けた。
すると、ここで気づいた。2階から飛び降りても死ねないかもしれない、と。

それでも網戸を開けようとする。だが、怖くて開けられない。それで、やっとわかった。
自分は死を望んでなどいないのだと。まだまだ生きていたいのだと。

涙が零れ落ちた。

その後

ガラス戸を閉めて、泣きながら窓から降りた。その後、何をしたのかは覚えていない。けれども、

「死ねなかった」

この事実は深く胸に刻み込まれた。
死にたくなかったのだ。生きていたかったのだ。
私は、自分自身の手で、人生を続けることを選んだのだ。

この出来事は、今でも支えになっている。
「現在は、自分が選び取ったからここにある」
この考えの原点はこの出来事だ。

あの日本当に飛び降りていれば、命はなかったかもしれない。そうでなくても、大きな怪我をして後遺症に一生苦しむことになっていたかもしれない。

けれど、そうしなかった。その結果、たくさんの素敵な人や出来事に恵まれた。あの選択は正解だったのだと、生きていて良かったと、思っている。

まだまだ短い期間しか生きていないが、それでも人生の全てが手放しで喜べるものだったとは言えない。けれども、生きていたからこそ得られた素晴らしいものは、確かにある。そして、それらに感謝している。

だから、これからも生きたいと願うのだ。