無題35_20200124234627

浮きこぼれ【小学生編】

塾講師のアルバイトをしていて、思う。

小・中学生の頃、学業面で、確実に浮きこぼれていた。

「浮きこぼれ」(※)とは、「落ちこぼれ」の対義語として使われる言葉である。

※「吹きこぼれ」と呼ばれることもある。

これは、浮きこぼれていた人間が何を感じながら学生生活を送っていたか、思い返して記録したものだ。

周りのレベルが高く、ついていくのが難しいと感じているのが「落ちこぼれ」
周りのレベルが低く、合わせるのが苦痛と感じているのが「浮きこぼれ」
との認識で話をすすめる。

学校は人間関係を学ぶところ

学校は、良い人間関係の築き方を学ぶところ。

だから、人との関わりに気を付けて生活していた。

積極的に人と関わる子、あまり人と関わらない子、どんな子とでも関わりをもつようにした。
それに、先生とも積極的に話していた。

それまで知らなかった世界を垣間見れるから、異なる性質や背景をもつ相手と話すのは楽しかった。

ただ、人間関係を学ぶ場と設定していたのは学校だけだったので、放課後遊ぶことはあまりなかった。

学校で遊んでいるのに、放課後まで一緒に過ごさなければならない理由が分からなかったのだ。

たぶん、社会人の方の「家でまで仕事したくない」と同じ感覚だ。

勉強は?

もちろん、学校は勉強を教わるところでもあった。

だが、勉強は(学校の役割としては)そこまで重要な位置付けになかった。

小学校の範囲なんて、授業を普通に聞いていれば分かる。ちょっと分かりにくい分野があっても教科書を読めば分かる。それ以上の範囲も学びたければ、人に聞くなり調べるなりして勝手に学ぶ。

家でもどこでも勉強はできる。だから、別にわざわざ学校で学ぶ必要はなかった。
無料(もちろん保護者が税金や諸費用を支払っている)で学べる場だから行ってた。その程度だ。

つまり、人間関係を学ぶついでに勉強していた。

今思い返すと、どう?

思い返すと、データを集めていたようだ。
何をすれば喜ぶのか、悲しむのか、不快に思うのか。
相手の行動への反応が、どのような印象を与えるのか。

多くの人と関わりをもっていたのは、異なる価値観と出会うのを心から楽しんでいたから。ただ、いつも笑顔で誰とでも仲良くなれる優等生、との評価が気持ち良かったという面もあった。

勉強は、普通に授業を受けていればできるのが当たり前だ、と本気で思っていた。

そんな意識だから、たぶん、勉強が得意でない人を無意識に見下していた。なんでできないの?ちゃんとやってないからでしょう?と。

おそらく、その意識を読み取っていた人はいただろう。
それでも、表立って批判されることは無かった。
純粋に「わからない理由がわからない」のを理解してくれていたのだろう。

ただ、当時は自覚がなかったので、発言や行動で誰かを傷つけたかもしれない。

まとめ

学校では人間関係について学ぼうとしていた。

勉強はやればできたし、学校でしなくてもよかった。できない理由がわからなかった。

もしかしたら嫌なやつだったかも。

また、何か重要なことを思い出したら追記・修正したり、続編つくったりするかもしれません。