そこつな自分を認める
そいつにはどうやら、ADHDという名前があるらしい。
ADHDと格闘しているらしいわたしは、人と話しているようでその場から、本を読んでいるようでそのページから、話す言葉を考えているようでその言葉から意識を別な所へ散歩させている。
おいしい料理を食べに行って、料理から意識が離れている。温泉に入りに行って、心ここにあらず。
目の前のことに意識を向けるのが難しいので、
今日は常に、昨日の自分とは遠く離れた世界で生きている。
これには本人もとても困っている。
思いがけないところから(普通の人なら反応しないような小さな小さな刺激から)、
”素晴らしいアイディア”が浮かぶ。
何かと自分に繋がりができる。
すると嬉しくなる。きっと精気が戻ったように見えるとおもう。
でも、大事な場面で、些事に注意を引かれている。
だから、ものごとに優先順位がつけられない。
入ってきた情報を、適切に脳の中へ届けることができず、変なところに入れた情報と、変なところから入ってきた情報が結びついて、変な風に繋がって、それで元気になることもある。
そうしてひとりで興奮していることがある。
穏やかな春の陽気の日に、心の中にマグマのように湧き上がりドキドキしていることがある。
その意味では人生は予測不可能な刺激に満ちている。
もし珍しく何かを最後までやり遂げられたとしたらそれは、常にこころの中で大がかりなスクラップ&ビルドを繰り返し、時には原型を留めないくらいに手を加えては戻して、なんとかやり遂げている。
あまりに大変なので、なにかに依存したいのを、
ぐっとこらえて生きている。
だから、生きているだけでとても疲れる。
ADHDは、常に湧き起こる考えの中に生きている。
普段考え続けていること、やらなければいけないことは、紙にメモをして忘れないようにしている。
紙にメモをするというアィディアを実行するまでに、途中で洗濯やら掃除やら靴下整理やら、微々たるものの修正をいっしょうけんめいやっている。
たまに振り返って、新しいアィディアを書き加えるが、その間にもどんどん思考が脱線している。
微々たるものをやり終えた時、とても疲れている。
注意力は持続しないが、過集中する時がある。
たいていはいっしょうけんめい脱線している。
学習方法は、覚えたいことのまわりをフラフラ歩いて、少しずつ過集中スイッチが入るのを待つこと。
ADHDが強すぎるときは、登山など単純で刺激のない環境に自分を放り込むこと。
「さいふを忘れて街まで、出かけたら、はだしででてきて、ゆかいなわかこさん」
ミスばかりの毎日で、落ち込むこともしばしばだけれど、泣いているヒマがない。
自分の中のダメな部分の名前を知ったからって、何になるだろう。
なるべくじょうずに付き合いたい。
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