結局自分でするしない

本の断捨離を終えて帰宅しようとして
歩いていたら、空き缶を見つけて。
思わず素通りしようとして思い直す。 
誰かが捨ててくれる、は無い。
と言うことを知っているのに

目の前の事象に対して
見て見ぬふりをしてしまいそうになる
それは、他人に丸投げしているのと
同じことになる。
『誰か捨てなさい』と。
 

だけど。。。
誰かが捨てるのを待っているより
自分が捨てにいった方が速いことを
本来は知っている。
その一瞬だけが手間なだけだ。
その手間を、誰かに擦り付けても
自分が行動したことには
なりはしないと言うことも分かってる。

誰がすてるの、より

自分が捨てた方がいい。
今、空き缶を見ているのは
自分しかいないから。
保加の誰か、を待っているより
動こう。

そう決めたら、動けた。
素通りせずにすんだ。
そして思う、誰かに見られているから
動く、物をすてる、と言うのは
他人からの羨望や、偉いねという
評価だけを欲しがっているんだな。 

承認欲求を満たしたいだけ
  

誰かの評価を気にしてばかりで
その評価がなれば動けないのは
他人軸で動いているのと同じ。だと。

例えば褒められるから
ボランティアをする、偉いねと
言われたいから、ごみを拾う。
と言うのは少し本末転倒。

褒められなければ行動できない
ということになりかねないからだ。

そして、外に向いた意識
外からの評価は、すぐに消えるし
承認欲求を満たしたいだけの
行動は長くは続かない。

それなのに、無償で動いたり
評価を気にせず動ける人をみると
快く思わず、悪口を言ってみたり。

誰の評価も気にしない人は
自分が今できることに
集中している人。
今の自分の最大限を発揮できる人。

だから、他人からの評価に
一喜一憂なんてしない。自分で
自分を評価しているから
他人の言葉に惑わされることがない。

結局は自分で決めなければ

何かに向かうとき、挑戦するときに
一々、どう思われるか
いい評価をもらえるか、と言うことを
気にして動くのではなく
自分が、したいことか
心が少しでも明るく、満たされるか
ということにじゅうしんをおいて
見てみると良い。

自分が、成長できるなら
とった行動で自分を褒められるなら
それが正解、自分が出した答えを
正直に褒めていこう。

自分で動くことで見えるもの

他人からの評価で動くときには
もっとほしい、褒めてほしいと
思ってしまうから、褒められないと
期待していた賛美がないと
どうして誉めてくれないの?と
怒りすら覚えるけど

自分で決めた事なら
称賛も賛美も正解も全てが
自分の中にある、と理解できる。

 

結局、どんなことも自分が中心。
大切なのは、行動の軸を
他人の評価、というものに置かない
ということなんだ。
  

誰かの評価、という軸を捨てよう。
自分の評価、に重点をおこう。

大切なのは自分が自分を誇れるか、だ。