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#003 浅野教授に聞く~「和解」はいかにして成し得るのか?~

~はじめに~

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国際和解映画祭を共同開催する国際和解学研究所の所長、浅野豊美教授に「和解学」とはどのようなものなのか伺った。東アジアにおける和解の学問的枠組み、「和解学」の考え方を学ぶことで、東アジア、特に日中韓における対立の行き詰まりを解消する糸口が見えてくる。浅野先生は『帝国日本の植民地法制:法的統合と帝国秩序』や『戦後日本の賠償問題と東アジア地域再編―請求権と歴史認識問題の起源―』を執筆・編集、政治経済学術院の教授を務めている。
国際和解映画祭学生実行委員の吉田凪がインタビューを行った。

「和解学」はお互いの感情・記憶・価値を踏まえ、「和解」を可能とする社会的条件を探求する学問である。東アジア固有の文脈を意識した学際的なものであり、表面的な政府間和解でない国民感情間の和解の必要性を説く。「和解」への市民活動の一環として、映画は日中韓の国民が変容していく第三の可能性を提示する。


共通認識を作る知的インフラ

―「和解学」とは何か、かみ砕いて説明していただけますか?

和解学について、よく誤解をされるが、和解と和解学は異なる。和解を自己目的化しようとするものではなく、むしろ、国民相互の和解を念頭に、それがなぜ難しいのか、和解を支えている記憶や感情や価値がどのようにずれているのか、市民としての和解とは何か、などの問題を客観的に議論する土台をつくっていく、知的なインフラだと思っている。和解のためにはこういう正義が必要だとして、和解自体に反対する議論をも念頭において、そうしたさまざまな議論を包摂する枠組みを作らないといけないと思う。そのために、普遍的な価値とナショナルな価値が融合し、記憶や感情を生み出す構造自体を、対象化する必要があると思う。どちらの議論が正しいのかをめぐって、ヒートアップする感情の対立を超えて、なぜ感情的にヒートアップしてしまうのか、その底流にある記憶や普遍的価値・正義の対立を、わかりやすく対象化していくことを和解学は志向している。
戦争にまつわる記憶や感情が、いかに形成されてきたのかを対象化し、冷静に相手に説明し、また相手の記憶や感情にもリスペクト・尊重する気持ちを持てるような基盤となること、それが和解学の大きな柱である。そうした交錯し空回りしがちな記憶や感情の微妙なズレや差異を自覚化しつつ、新たな感情を育む機会に国際和解映画祭がなってくれたらと思う。

―「和解学」はお互いの感情や記憶を尊重するための土台としての役割を果たすのですね。

戦争と植民地支配の被害者が社会に名乗りを上げることで、人権や女性の尊厳という新しい価値のシンボルとして、また、植民地支配や独裁体制のシンボルとして、これらの被害者をみよ、どうするのだという問いが突き付けられているのが、「慰安婦」問題だということができる。ちなみに活動家はそれを「戦時性暴力」問題と呼称する。
民主化が進んで体制が変わっていく中で、こうした被害者の救済をいかに実現するのかという問題が、移行期正義の問題と呼ばれる。韓国の慰安婦のおばあさんは、単に日本植民地の被害者であるのみならず、冷戦時代のアメリカや日本に支えられ、人権を抑圧し彼女たちの救済を放置してきた腐敗した独裁政権、権威主義体制の被害者でもあるわけだ。その意味で、その運動は、単に日本にだけ向けられていたわけではないけれど、問題なのは、国境を超えた連携が行われて、そうした被害者の救済が行われた例が、ほとんどないという点だと思う。同じネーションの中でこそ、体制移行に伴って被害者救済は行われてきたけれど、異なるネーション・国民の関係に結びつけられると、「戦後処理問題」が不十分であったことの象徴ともされて、お互いのナショナリズムが喚起されて、収集がつかないほどの、国民感情の悪循環が始まってしまっている状態になってしまった。
国民としての感情・記憶・価値のズレにも配慮しながら、戦後処理の玉虫色化されざるを得なかった当時の状況や、現在における被害者救済の必要性を踏まえて、いかに取り組むべきなのか、一緒に議論できる枠組みを作る必要がある。
さらに、日本から韓国などのアジア諸国への経済協力が、いかに展開されたのか、なぜにして、こういう問題が残ったのかについても、検討する必要があると思う。物質的な復興を経済協力は推進したけれど、物質から切り離され封印されてきた「心」の問題こそ、我々が直面している課題なのだと思う。これは精神的脱植民地化、植民地責任とも言われる。
経済協力が展開される中でも、借款や技術協力をバラバラに遂行するだけではだめで、教育支援や人の交流と結びつけて、ナショナリズムに向き合う必要があるという意識は、1970年台初頭にすでに芽生えていたよ。国際交流基金が1972年にできるし、JICAも1974年にできる。色々な動きはあったけれど、1990年代に慰安婦問題が大きなインパクトを与えるまで、結局経済協力は物質世界の復興に留まってしまったように思う。

―経済発展、経済協力は各国国民間の心の問題の解決にはつながらなかったのですね。戦後から今に残された対立は、どのようにして解消され得るのでしょうか?

戦後史を、政治闘争の一環としての歴史ではなくて、本当に我々の生活そのものの歴史として捉えることで、熱くならずむしろ冷静に、和解の問題に向き合っていくための知的資産とすることができると思う。そういう意味で、グローバルヒストリーと呼ばれる手法で、国民という存在自体を歴史化することも、和解学の一部となり得るよ。
しかし、大事なのは、自分自身のアイデンティティとか自分のプライドのなかに、国民的なものが組み込まれてしまう宿命から逃れられない、つまり日常言語や安全の問題ゆえに、誰しもが国民国家から逃れることができない時代に、我々が生きているということを、まずは意識すること、その上でグローバルヒストリー的な見方を拡大することだと思う。
日本の国民的歴史をアイデンティティの唯一の根幹とするかぎり、「自虐史観」だと誤解して反発して対話を受け入れない人もいる。他方で、反対に人権や女性の尊厳という「正義の回復なくして和解なし」として、国民相互の和解に反対する人もいる。こうした社会の分断がなぜ起こるのかという構造をこそ、まず、和解学は問題としていきたい。
その上で、コスモポリタンの理想を掲げる人は確かに存在するけれど、国家が消滅しそうにもない状況を踏まえると、ある種「現実的」な思考も必要とせざるを得ない。その意味で、国民的和解を囲んでいる政治的文脈や構造を、まずは共同で認識しながら、互いの国民的感情や記憶を価値と組み合わせ、その複合体の中で国民が構築されていることが議論可能な対象となってこそ、国民間の盲目的反発を超えて、慎重な説得や、対話を通じた第三の選択肢の共同創造というような政治的挑戦が、可能となるのではないかと思うよ。
しかし、こうした試みには、日本のネトウヨのみならず、韓国の民族主義者も反対に回るだろうね。少しでも「妥協」することには反対というのがその論理となる。でも、和解学は、主体としての国民が、対話を通じて気づいたら互いに変わっていたというような状況、つまり、主体の変容を伴うような新しい関係こそ、和解であると想定している。
日韓ともに国民が主権の担い手であるとされる中で、妥協としての「和解」を主張する勢力が周辺化されてしまうような構造があって、国民的記憶・感情・価値の複合体として、国民社会はある種の磁場を有しているわけだけれど、その国民相互の対話の糸口を探すためにも、国民自体の形成史を、グローバルな視野から、相互の関係の中で国民が作られてきたプロセスの一部として捉えることは重要だと思う。そのプロセスには植民地支配や戦争・内戦も含まれているよね。

―大きなグローバルな歴史の流れの延長に、戦後史を捉えることで、自虐という批判をこえて、国民自体を対象化して冷静に対話ができるというのですね。ここまで話を聞いていて、「和解学」はいろいろな学問領域に関わるように思えるのですが、学問としてどのような位置づけにあるのでしょうか?

和解学は国際関係論と歴史学の両方に軸足を置いて着想されたものだ。国際関係論の中でもナショナリズム論とか構築主義の理論が重要だ。それから歴史学の中でもグローバルヒストリーという形で、国民史では捉えられない歴史を対象に展開されてきた流れが大切だ。しかし、今のグローバルヒストリーは、国民自体がいかに形成されてきたのか、その国民的記憶が、身分や地域で分断された近代以前の状態から、いかに作られてきたのか、理論的考察はあっても、東アジアを対象に本格的に研究されていないように思う。国際関係論を専攻してゲルナーやスミスを知っていても、歴史学がわからない。逆に歴史学を専攻して資料は読めるけれど、自分の土地勘のある時代が狭くて、歴史全般に関わる理論への関心がないなど、学問自体も縦割りになってしまっているね。「総合的俯瞰的」とはよく言ったものだけれど、和解学は土着の学問として、西欧の学問手法を表面だけ取り入れるのではなしに、東アジアという地域に足をつけながら、新しい我々、国民を超えた地域の我々という立場を、国際的協力と対話によって構築していかないといけないと思う。国民がなくならないことを踏まえつつも、ヨーロッパやアメリカという地域の意識は重要だ。


零れ落ちた感情・記憶・価値

―歴史と外交を切り離すという考え方もあると思いますが、歴史問題はとりあえず置いておいて、協力できるところだけ協力しようという考え方は和解学の考え方と相反するのでしょうか?

相反しはしないけど、協力できるところだけ協力する手法は、利益を基盤とする外交の手法だったり、表面だけの生活から切り離された文化交流だったりするから、所詮は「妥協」に終わってしまうもので、本当の意味での交流にならないと思う。妥協と区別される和解は、主体の変容を伴うか否かが分かれ目だ。
歴史認識問題は外交と切り離して、「学者先生にお任せします」というのが、今までの日本外務省、韓国外交部の手法だったと思う。外交官全部ではないけれど、軽く見られていたように思う。しかし、学者同士の対応に任されていたはずが、学者は対話の手法が見つからず、感情対立に自ら巻き込まれるし、また、国内政局が起こると、歴史問題が再び政治問題化して国内の政権交代の焦点としてよみがえるという構造から、逃れることはできない。国内政治と、国際政治はリンクしているという現実が確かにある。しかし、レベルが違うといって、今までの国際関係理論は、取り扱うことができていない。今の国民を当然の与件として利益とパワーのみを基盤として展開される外交のあり方、自体の限界が露呈している問題だと思う。モデルがないので、意識の高い外交官はいても、それが省全体のコンセンサスとはならないと思う。そうして問題は放置され、全然解決しないどころか、ますます悪化していく。
ついに、日韓の間でも、日中の間でも、歴史問題は今や領土問題と結合してしまい、日韓のGSOMIA(注1)の延長問題にも波及して、安全保障の枠組みさえ侵されつつある状況になった。外交と歴史が切り離すことができない理由は、主権の主体としての国民が、東アジアにおいては、政治の力で構築されてきた側面を持つからだ。国民がいかに近代の歴史を通じて構築されてきたのか、その過程に置かれた植民地支配とはなんであったのかという問題への共通認識育成を抜きにして、国益だけの外交はできないように思うよ。国益を支える国民自体が有する感情や記憶が、歴史問題の争点なのだから。
国益とパワーだけの外交ではなくて、国民という近代的集団が、一体、いかにして構築されてきたのかという背景や、それに対する共通認識を国民相互の間で行なっていけるようにすることが必要だし、そうした必要を踏まえつつ、国民感情相互間の記憶や価値への認識のズレをも踏まえた高度の外交と、それによる芸術として、今までに例のない政治オプションを共同で作り出し、両国民を説得する技量が必要だと思う。つまりは、外交官だけではなくて、国民感情を支えているメディア関係者、学者、政治家も加わった、いわゆる国民間和解を目指さないといけないと思う。
そのためには、相手のみならず、自国の国民をも粘り強く説得していくことが必要だし、そう説得できるロジックを日韓中の学者が集まって作りだしていく必要もあるだろう。

(注1. 軍事情報包括保護協定。日本が輸出管理を厳しくしたことへの対抗措置だとして、2019年8月に韓国がGSOMIAの破棄を日本に通告した。

―国民がいかに構築され維持されているものなのか、歴史や政治や社会を踏まえることが重要なのですね。

和解学は、いろいろな領域に関わるものだとすぐにイメージしてもらえたことはありがたいね。国民が構築された存在であるからこそ、実際に今、日韓の間で起きている現象は、その根幹としての国民感情や記憶を揺さぶって反感も高まるし、悪循環も起こっているのだと思う。それなのに、縦割りになってしまっている学問のはざまで、学者も有効な対処はできない。政権交代を期待するしかないという言説を公言する人まで、一部にはいる。いろいろな既存の学問から零れ落ちてしまっている問題でありながら、社会的に影響の甚大な問題こそ、歴史問題ということができるよ。外交官もそれを外交から切り離そうとして、実は切り離せなかった。時間が経つほどに、どんどん問題が大きくなっていく。
感情とか記憶とか価値という問題は、何か「ふにゃふにゃ」していて扱いにくい印象は確かにある。しかし、主権者であるはずの国民がいかに形成されたのかがブラックボックスに入っているままで、国内向けの教育を互いに繰り返すままであったり、相手からの批判に盲目的に反発したり、逆にそれに無原則に迎合するような姿勢だったりでは、ダメだと思う。いかに国民が構築されてきたのかを踏まえつつ、それを双方向で国際的に議論を喚起しながら、可能性の芸術としての政治のエネルギーにしていく必要があると思う。


共有する映画による和解の可能性

―歴史に向き合い相手側の正義に耳を傾けることは難しいように思えますが、どのように対立しあう国民間の対話が可能なのでしょうか?

それぞれの価値、日本であれば平和や豊かさ、韓国であれば人権や自由、そういうものと結びついた国民感情をまずは尊重する・リスペクトする、その上で実は、こういう考えの底流には、さらにこういう価値があるのではという形で、何が対立しているのかを、解きほぐしていくこと。日本の中にも、豊かさより自由や自立を優先して求めた人がいたことや、韓国の中にも、豊かさを求めた政権があったこと、複眼的な視座を持つことが大事だと思う。
よくないのは、相手の文化、相手の「国民性」に、全ての原因を帰してしまったり、自分の文化、自分の国民性を卑下したり、逆にそれを自慢したりすることだ。アイデンティティーの衝突を直接に招いてしまう。国民性や文化に頼って、歴史や過去の不幸な出来事を説明するのではなく、国民形成自体を歴史化しながら、その途上の政策の過ちであり、また、国際関係と国内政治の構造故であるという説明が必要だ。
最後に、そうした歴史の延長線上にどんな国民も存在していることを踏まえて、そのアイデンティティーを形成している要素、先ほど話した、感情・記憶・価値に分けて対象化して、議論可能とする理論的な視座も必要だ。歴史と理論の両方が必要ということだ。それによって対話の接点を見つけつつ、より高い次元で、歩み寄れる可能性を言葉にできないものかと思う。
いわゆる「左翼の活動家」や「ネトウヨ」という人たちは、まず、相手を道徳的に非難するね。「なぜこの被害者中心主義がわからないのだ、なぜこの被害者の人権を尊重しないのだ」、あるいは「日本人なら、そんなことはしない」などという表現。
「私はこんなに素晴らしい和解のアイディアを持っているのになぜこの私を非難するのだ」というのも、「あなたたちは和解をわかっていない」というのも同じ。これはやっぱりダメだと思う。
さらに続けると、いろんな人たちの感情を尊重しつつも、逆にそれをジョークとして笑い飛ばせるような文化が必要だ。これが私のいう和解文化を支える映画のイメージだよ。違いがあれけど、笑いによって、その違いから来る緊張が解かれて、何か明るい、しかし、真剣なものに支えられた明るさが戻ってくるような文化を生み出せないものか。
笑われると、少し恥ずかしいなと思いながらも、一応受けとめられているのだという安心感は伝わってくる。逆に、ジョークで返して、切り返すことで、より相互理解が深まることもある。それで青くなってしまうと、緊張で言葉が出なくて、喧嘩になってしまう。心の中で「お前は自虐だな」という感情が湧いてくると、言葉はもう発する気にもならなくなる。「あいつらめ」という感情で心は凍りつくわけだ。

―「笑い」という発想はなかったです。センシティブな話は避けてしまっていたので、相手の感情を尊重しつつ違いをジョークにするという文化はいいですね。

カナダ人とアメリカ人がよく英語で、お前たちカナダ人はこうだなとか言いながらジョークをお互いに言い合っている、歴史も踏まえてね。カナダはもともとイギリス領だったから米英戦争のときにアメリカがカナダに侵攻してカナダを吸収合併しようとしたときがあった。特にナイアガラの滝のあたりで激しい戦いがあった。
今ではカナダとアメリカの国境線には、軍隊もいないし、何の紛争もないよね。あと山火事があったりとか毒ガスが流れたりとか、国境線でいろんな事件があったときには、政治はほとんど出なくて、みんなもう司法的行政的解決ですむ。こういう事件が起こったら、このように解決するのだという色々な前例が積み重なっている。だから国境線自体が政治問題にならない。

―なるほど。歴史的な対立があっても、アメリカとカナダは政治的に緊張することなく良好な関係を維持しているのですね。

しかし、日韓の間では、竹島・独島に象徴されるように、国境線では、大きな感情がかき回されるような事件がいつも起こされるし、教科書問題とか靖国問題とか、相手のプライドや自尊心を刺激するような事件が、よくマスコミから報道されてしまう。経済的政治的利益をたくさん共有しているのに、いわゆる植民地時代をめぐって共通の認識が存在しないがために、お互いの感情は悪くなる一方の状態だ。
今から20年ぐらい前には、経済的利益をベースとした東アジア共同体論というのがよく唱えられたけれど、そこには、表層的な議論を抜きにすれば、和解学が問題にするような生きた感情や記憶に支えられる国民の構築に関係する議論が欠けていたと言わざるを得ないね。スポーツや青少年交流の重要性は、たしかに言われてきたけれど、大多数は「歴史」に関係する話題を避けていたのが実情ではなかったかと思う。歴史を避け、「危ないもの」には蓋をしながら、スポーツ交流、アニメ交流などをやってきた。危ないテーマは、確かに迂闊に踏み込んではいけないけれど、議論の方法や基本的な問題意識を共有できたら、慎重に取り上げることは可能となるはずだ。
実は、感情を交錯させられるようなドラマや映画というのは、和解学の成果をわかりやすく一般の人々に伝えられる有力なツールではないかと思うよ。議論だけだと慎重な方法論を踏まえることが必要だけれど、その成果は逆に、わかりやすく伝えることができる。感覚的な和解文化の材料は、歴史を素材にすると、豊富に転がっているように私には思えるよ。「和カフェ」では、脚本作りが話題の中心だけれど、さらだたまこ日本放送作家協会理事長の講演をいただきながら、精密なストーリー・プロット作り、人物づくりにこそ、歴史学の知識や手法は生かされる。緻密な歴史と、和解ドラマは、実は相性が良いのではないかと感じているね。
吉田さんからインタビューされて、自分でもハッと気づいたけれど、和解ドラマが広まってくれば、ツイッターという短い言葉の枠の中で多様なメッセージを伝えやすくなると思う。共通の映画やドラマが生まれれば、和解文化には、はずみがつくはずだ。愛の不時着とか、パラサイトシングルとかは、その有力な見本ともいえる。パラサイトといえば、すぐに通じるし、将来、パラサイトに匹敵する次元で影響力がある映画が、歴史を素材として生まれて欲しいと思う。その可能性は、誰も挑戦していないだけではないか、そう思えてならないよ。


(注2. ASEAN加盟国に日本・中国・韓国を加えて新しい地域共同体を作り、貿易・投資・安全保障など各分野での連携を強化しようという構想。(デジタル大辞林)
(注3. 「パラサイト 半地下の家族」。2019年のポン・ジュノ監督による韓国のブラック・コメディスリラー映画。(Wikipedia)


妥協ではない、国民が変容する可能性

―それぞれの国民の認識や感情の違いは克服できるものなのでしょうか?

人権って普遍的な価値はたしかにあるけれども、解釈のされ方が違う。人権自体に反発する人は現代ではいない。日本の保守派さえ、人権を拉致被害者の問題で扱っているね。だから拉致被害者問題では人権が強調されるけれど、慰安婦問題や徴用工問題では人権問題はもう韓国内部の問題とされる傾向が強い。少し、おかしいなとおもう。
韓国では逆に、人権被害者というと、「性暴力」をうけた「慰安婦」おばあさんのことが想起される。日本の拉致被害者のことはほとんど知られていない。韓国人の拉致被害者の方が数が多いし、韓国の保守との親和性が強いからね。
記憶や価値をめぐる、そういうズレの存在を意識するようになれば、お互いの感情を近づける、歩み寄れる可能性も出てくるのではないかと思う。
でも歩み寄れるかどうかという、現実の和解にはまた別な力学が働いて、政治的・経済的・社会的な利益とも、確かにそれは関わってくる。妥協は和解ではないと言ったけれど、そうした利益を無視することはできない。いかにそうした共通利益を利用しながら、和解学が想定する、主体の変容を伴うような新しい関係の創造ができるかということだと思う。だから、和解学ができれば必ず和解ができるというわけではない。
妥協という側面がどこか現実の和解には付き纏うね。しかし、そうした妥協を、いかに一つの契機として、国民間の和解に向けていくのか、また、そのために市民間の和解は、いかなる役割を果たすのかという、和解学の問題意識は重要だ。現状では、市民の間では、いろいろな市民的和解が既に存在していると言ってもいい。問題は、そうした市民のトランスナショナルな集団同士が、対立して、異なる方向に国民を持っていこうとするから、国民間和解はますますこじれるという現状にあると思う。だからこそ、なぜ和解が上手くは進まないのか、国民感情相互の間での紛争は、どのような国内と国際を跨ぐ構造の中で、悪循環を起こしているのかなどの問題について共通認識を作ろうとするわけだ。
国際・国内政治の構造の中での国民間の感情対立の構造とともに、もう一つ大事なのが、主体としての国民がいかに形成・構築されたのかという問題に対する歴史的考察だ。過去の形成プロセスについてある程度の共通の認識ができれば、これからの変容の可能性をも念頭におくことができないだろうか。可能性の芸術としての新しい政治オプションに共同で取り組むことも可能とならないだろうか。今激しく対立しているのだけれども、こういう枠組みを一緒に作れば、お互いがともに変容していけるかもしれないというのが、高度な芸術としての政治だと思う。ゼロサム(注4)的な対立を止揚していくものこそ、そうした芸術・アートとしての政治だ。
今の状況では、どんな政治家でも、ナショナリズムに駆られがちな国民を、今までとは異なる方向に説得することはできないと思う。政治家の短い二言三言、ましてや公式声明ぐらいの次元で、慰安問や徴用工問題を解決することはできない。そういうレベルの問題ではなく、もっと根の深い問題となっている。だから、和解学的な観点から、記憶や感情・価値を取り入れ、国民の形成を歴史として語れるための言説を、自分の生きた言葉で語ると同時に、そうした感情自体に慎重に向き合うことのできる政治家や外交官が日韓双方に求められていると思う。それが社会の主流として、反発されず、むしろ歓迎される雰囲気も、これは和解文化的なものとして底流に生まれていないといけないと思う。
韓国の政治家は韓国人を説得し、日本の政治家は日本の世論を説得する。日韓政治家同士が固く信頼に結ばれて、こうしなくちゃいけないっていう風に、お互い信じあえることも必要だと思う。第三の選択肢を芸術としての政治が生み出すときにはね。そうしなくては、解決はできないような状態になっている。しかし現状は、繰り返しになるが、威勢の良い民族主義的主張によって、こうした政治家が裏切り者として攻撃されてしまう状態だ。

(注4. 合計するとゼロになること。一方の利益が他方の損失になること。(デジタル大辞林)

―人権のような共有する価値を土台とし、お互いの認識のズレを知ることで国民が変容する可能性が見えてくるのですね。

変容に開かれたような第三の可能性に気づけることが必要だと思う。妥協ではない形の解決を行うためにはね。妥協は、利益の観点からそれを折半して、価値については玉虫色化するものでしょう。でもそういうのではなくて、お互いが気付いたら変わっていくような枠組みを作り上げることが必要なのだ。

―和解学は東アジアの国民それぞれがいつの間にか変わっていくという第三の道を開くことを可能にするのですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。


~インタビューを終えて~

日中韓それぞれの国民に受容され、その価値が共有される。そのような映画を基盤に私たちは少しずつでも変わっていける。そう勇気づけられるインタビューだった。たとえ長い道のりになるとしても、よりお互いを理解・尊重し、利害関係を超えた、新しい関係性を築くことができるのではないだろうか。

(担当:早稲田大学国際教養学部2年 吉田凪)

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