九条兼実と崇徳院・高倉院・安徳天皇
大河ドラマ、ついに昨夜、壇ノ浦の戦い、安徳天皇入水の回が放映されましたね。
鴨長明『方丈記』が記す災害と戦乱の時代に、この事態を招いた大きな要因として恐れられたのが、崇徳院(藤原頼長も)の怨霊でした。しかし、時の右大臣九条兼実はあくまでも第一は「徳政」の実行であると主張し続けていた政治家でした。
崇徳院の怨霊におびえる後白河院に対して、兼実は、「人民のことを第一に考えるべき。炎旱が長きにわたった上に、南都の再建、追討の兵糧と、人民の経済的負担は非常に大きい。餓死する民も多い。国家は民を失ったときに滅ぶもの、賊首を誅して何の益があろうか、まずは民の悲しみ、恨みを省みて、民の望みを叶えるべきである」と諭しています(『玉葉』治承5年7月13日)。後白河院の失政にこそ動乱の原因はあると考えていたのです。
その兼実、安徳天皇の入水については、三種の神器の行方を心配すると同時に、深い同情と哀悼の念を表明します。「逆賊の党類」こと平家に伴って都を離れたものの、決して彼らと「同心合謀」には及ばなかったとし、追号、修善を行うことを是とし、長門国に一堂を建て、安徳天皇をはじめ、戦死した人々のために永代の作善をなすことを勧めています。
さらには、二部の清浄経を書写して、一部は亡き母のために兼実自ら反古紙を漉し返し、一部は安徳天皇と平家一門の極楽往生を願って、東大寺大仏の胎内に籠めるべく送っています(谷知子「『建礼門院右京大夫集』に見る資盛供養―消息経の意義と方法」(『海王宮ー壇之浦と平家物語』三弥井書店 2005年10月)。
こうした兼実の姿勢の背景は何か。兼実の姿勢と『平家物語』の人物造型は異質ではないように思います。この先と詳細は、ぜひ、谷知子「九条兼実と崇徳院・高倉院・安徳天皇ー徳政と鎮魂」松尾葦江編『軍記物語講座 第二巻 無常の鐘声 平家物語』(花鳥社)をご一読ください。
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