「なばり」の地名

三重県名張市の広報に、地名の由来、歴史が載っていました。

転載いたします。

どこの街にも、通り一つにしても、それなりの歴史があるものなんですね。



NABARI HISTORY LETTER No.18

令和3年2月25日 2021年(令和3年)2月25日号 4

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●編集発行 名張市郷土資料館(教育委員会文化生涯学習室)
〒518-0734 名張市安部田2270番地 名張錦生ふるさとパーク内

「なばり」の地名

私たちが住む名張の地名「なばり」は、とても古くから使われてきたのをご存じですか。
「なばり」が文献上、初めてあらわれるのは「古事記」安寧(あんねい)天皇 の条(じょう)です。

古事記は現存する日本最古の歴史書で、8世紀初め(今からおよそ1300年前)に編さんされました。

「古事記」では、安寧天皇の子・師木津日子命(しきつひこのみこと)の子の一人が伊賀の須知の稲置(すちのいなぎ)、那婆理(なばり)の稲置、三野(みの)の稲置の祖先であるとする伝承が記されています。

「稲置」とは地方官のことで、須知が矢川郷の古称で、那婆理は箕曲中村・瀬古口を中心とする地域、三野が小波田付近です。

この時代の「那婆理」と称された場所は箕曲中村・瀬古口を中心とする地域でした。

古事記の8年後に完成した「日本書紀」では、孝徳天皇大化二年(646)正月条に「凡そ畿内は、東は名墾(なばり)の横河(名張川)よりこの方、南は紀伊の兄山(せのやま)(和歌山県伊都郡かつらぎ町背山)よりこの方、西は赤石(兵庫県明石市)の櫛淵(くしぶち)よりこの方、北は近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おおさかやま)(滋賀県大津市逢坂山) 、よりこの方を畿内国とす」と記されています。

これは畿内の範囲を規定した記述で、畿内の東端は名墾の横河としており、「名張」と記されています。

また、古代最大の戦争である壬申の乱のことを記した天武天皇 元年(672)六月条には「夜半に及びて、隠郡(なばりこほり)に到り、隠の駅家(うまや)を焚く」とあり、大海人皇子(おおあまのおうじ のちの天武天皇)の軍が壬申の乱の際に、吉野から東の国の美濃に向かう途中に隠の駅家を焼いたと記されています。

ここにある「駅家」とは役人のための宿泊施設で、なばりのうまや「隠駅家」は今の箕曲中村・瀬古口にあったと考えられており、横河(名張川)の南側にありました。
ここでは「隠」と記されてい ます。

壬申の乱後、大海人皇子が 凱旋で都に戻るときに名張で一泊します。
天武天皇元年(672) 九月条に「名張に宿る」と記されており、ここでは「名張」となっていて、同年で「隠」と「名張」 の使い分けがされています。

現在使われている二文字の「名張」はこの記述が文献上の初見となり、「名張」は朱鳥(しゅちょう)元年(686)六月条にも庚寅に名張厨司(くりやのつかさ)に災(ひつ)けり」と記されています。

「厨司」は朝廷に食料を献上するところで、簗瀬(現在の旧市街地)にありました。

簗瀬は横河(名張川)の北側にあり、また、都に凱旋するには、朝に名張川を渡り、都入りするのが吉祥であるため、大海人皇子が壬申の乱後の凱旋時に、畿内に入らずに横河の手前で宿泊したとすると、横河を境に北を「名張」、南を「隠」と使い分けたとも考えられます。

昭和9年発行の名張市史を執筆された中貞夫氏も『名張の歴史』で「ナバリの語原が、『かくれる』という地形、あるいは、『はる』という早期開発に、なんとなく関係があるように思われてならない」と述べられているように、「名墾」は「有名な開墾地」、「隠」は「大和からみて隠れている(古語でナバル)土地」の意味とするものと考えるなら、畿内の東端である横河の南(畿内)は「隠」を、横河の北(東の国)は「名張」としたのでしょうか。

「万葉集」には「隠」を詠み込んだ歌が三首収められています。
そのうち、私たちがよく耳にするのは

我が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の隠の山を今日か越ゆらむ

で、古くから万葉秀歌として多くの人に愛されている歌です。

当麻真人麿の妻が天皇の東国行幸に加わった夫の旅路を思って詠んだ歌で、近鉄名張駅西口側のパーキングエリア横に万葉歌碑が建っています。

「隠(なばり)の山」は「隠 (かくれる)」ではなく「隠 (なばり)」とよむと本居宣長が唱えるまでは「隠(かくれ) の山」と詠まれていました。

このほか、平安時代にできた百科辞典のような「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」には「伊賀國 名張 奈波利」とあります。

「奈波利」は奈良県明日香村の石神遺跡で出土した7世紀後半ごろの荷札木簡にも使われています。この「奈波利」は平仮名のなかった時代に「名張」のフリガナとしてかかれた文字とも考えられます。

名張の地名「なばり」は、これらのように表記されてきましたが、和銅六年(713) 「二字佳名の詔(にじかめいのみことのり)」で、「名張」の 二字に統一されます。

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