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【中編戯曲】鰐

登場人物
 夫
 妻
 医者/ワニ 男でも女でも

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

コリント人への手紙Ⅰ 13章1ー3節


夫と妻。
夫はテレビを見ている。
妻は夫に話し続けている。

妻 大丈夫? ワニワニ。ワニ。逃げたって。そう。この辺にいるかもなんだって。ワニが。そう。わからないけど。飼ってたのが逃げたんだって。かわいそうよね。どこかで隠れてるのかな。危ない?怖いの?ええ、ワニ。だけどかわいいでしょ。動物園で見たことあるけどかわいいと思うけどな。

夫はテレビを見ているわけでもなく、妻の会話の内容でもなく、ただ耐えていた。だが自分が何に耐えているのかを考え始めそして気づく。

急に立ち上がる夫、驚く妻。

夫 ああ、なるほど。
妻 どうしたの。
夫 薬飲まなきゃ。
妻 なに?
夫 そうかそうか。
妻 飲んでなかったの。
夫 うっかりうっかり。
妻 ダメじゃない。
夫 どこだどこだ。
妻 どこ?
夫 そうかそうか薬を飲まなきゃ。
妻 大変。
夫 薬はどこだろう。

夫がオロオロと意味もなく動いている間に妻が薬と水をもってくる。

夫 ありがとう。
妻 どうぞ。
夫 薬を飲まないと。
妻 ええ。
夫 そうなんだ。薬を飲まなきゃ。
妻 いいから。
夫 そうなんだ、そうなんだ。
妻 早く。
夫 飲むのか、薬を。
妻 そう。
夫 いやだな。
妻 イヤ?
夫 え、
妻 飲みたくないの?
夫 オレが?
妻 今、
夫 薬を飲まないとダメなんだ。
妻 なら、
夫 うんうん。そうなんだ。
妻 飲まないの?
夫 薬を?
妻 そう。
夫 そうか、イヤなのか。
妻 どうしたの。
夫 どうしよう。
妻 っていっても。
夫 困った。
妻 忘れるから。
夫 飲まなきゃ。
妻 我慢してぐっと。
夫 イヤだな。
妻 お湯にしてみるとか。
夫 そうじゃない。
妻 苦いのがイヤなの?
夫 違う。
妻 じゃあ、
夫 イヤなんだ。
妻 でも、
夫 そう。薬は飲まないといけないんだ。
妻 イヤでもスキキライで飲む飲まないってものじゃないでしょ。
夫 そうだそうなんだ。薬っていうのは好きだから飲むってもんじゃない。イヤだからって飲まないもんじゃない。だって飲まないといけないんだから。
妻 でしょ、じゃあ。
夫 困った。
妻 困ったって言われても。
夫 困るよな、困るんだよ。
妻 病院行く?
夫 そもそもこれはなんの薬なんだ。
妻 あそこ混むのよ。予約めんどうよね。
夫 そうだ。こうしないか。離婚しよう。
妻 はいはい、離婚ね。救急車はたいそうよねえ。
夫 離婚だ。
妻 救急だと後日清算だったよね。
夫 ほうら薬を飲んだよ。離婚だ。
妻 口開けて。
夫 なんでだよ。
妻 はいはい。
夫 飲んだよ。
妻 ほら、あーん。
夫 離婚だよ。
妻 はいはい。病院に電話してみる。
夫 ごめんなさいごめんなさい。
妻 やっぱり飲んでない。
夫 イヤなんだ。
妻 先生いらっしゃるかな。
夫 飲みます飲みますよ。
妻 イヤなんでしょ。
夫 イヤです。
妻 ほんと、ちょっと油断すると。
夫 もちろん薬は飲まないといけない。
妻 はいはい。
夫 何の薬ですか、これは。
妻 飲まないと。
夫 これはなんのお薬か教えて。
妻 飲んだらね。
夫 飲んだら教えてくれるんだね。
妻 はいはい。
夫 ほら飲んだよ。
妻 あのね、あなたは病気なの。
夫 病気?
妻 効いてきたら落ち着くから。いい? あなたは愛情が足りないの。愛、ワタシへの愛、愛情。ワタシを愛してない訳ないでしょ、飲まないからそうなるの。
夫 そうか、薬を飲んだから早く効くといいなぁ。カフェインとかどうだろう。あれは薬の効果を強めるってきいたことがあるよ。コーヒーを飲もう。ね。
妻 ダメ。そういうのは。薬は用法容量を守らないと。
夫 そうか。用法容量を守らないとね。お薬を飲むときは。
妻 ええ、お薬は使用上の注意をよく読んで用法用量を守ってお使いください。ピンポーン(薬のコマーシャルで流れる効果音)


医者と夫
ピンポーン(病院の呼び出し音)
医者がパソコンで検査結果を見ているようである。
夫が落ち着きない様子で入ってくる。
医者、しばらくパソコンをさわっている。
夫、そわそわしながら待つ。
医者、夫の様子をじっくりみながら、ようやく、

医者 これ、検査結果なんですが。これ見えますか? ここですここ。この数値。オーエックスワイって、ここですここです。これが単純にいいますと愛情を量る数値になるんですね。これがだいぶ低いんです。別に驚く事じゃないんです。そもそも男女差ってものがありまして男性の方があまりでないって人が多いんですね。もちろん個人差がありますけども。多いって人もいますけど、逆に多すぎるっていうのも困りものでこうなると非常にだまされやすくなっちゃったり、変に差別的になっちゃったりっていうのがあるんですね。だからまあバランスっていうのですかね。もちろん体調とか環境によって人それぞれですしその人その人に合わせたやり方、方法っていうものがありますからね。クオリティーオブライフっていうのが重要ですから、現代医療ではですね。ですからワタシみたいなね愛情専門医っていうのがいるわけです。じゃないとここにきてない。本当に愛情がいらない人っていうのはここにきませんよ。死にたい死にたいって言う人は、死にたいんじゃないんです。生きたいんですね。生きたいのに生きづらいっていう言葉の裏返しですよ。逆に死にたいって言わない人の方が危ないんです。本当に死ぬ人はそんなこと言わずに死にますよ。そもそも愛情っていうのが、神聖視されすぎてきた歴史があるんです。それこそ本当に神様みたいに見えない、けどいる気がするっていうそういう存在だったわけです。信じられません、いまから考えたら。その当時にはその当時の考え方がある。今の常識でその当時のことを笑うなんて言うのは馬鹿なことです。歴史とは対話するものなのです。そこからワタシたちは学ばなきゃいけない。とにかく愛というのは見えないし、さわれないし量れないものだった時代があったんですね。けど今はこうやって簡単に数値として現れるんです。便利になりました。結局はこの数値なんです。これが不足してしまうから愛が枯渇してしまう。もちろん知っているよって思うでしょう。ワタシも失礼を承知で言っているのです。申し訳ない。インフォームド・コンセントってやつです。めんどくさい世の中になりました。けどね、逆に考えてみましょうよ。なんでこんな数値に振り回されなきゃいけないんだ。人間は自由であるべきだ。どんなことであろうと自分で考え、自由意志を持って選択し決定する力をもっているんだって。無理です。もうこれは科学的に無理なんです。そもそも自由意志もなにもないんです。人間の思考はこれらのいろんな数値で決まるんですから、全部全部。結局人間はこういったいろんな物質の数値のあやつり人形なんです。脳みそが考えるなんて笑っちゃいますよね。脳みそなんてだた反応するだけの計算機ですよ。電卓が心を持ちますか?って話ですよ。人間なんて数字を見てナナが好きとかヨンがキライだとか気分でしか物事を理解できないんです。結局愛も、イチタスイチと変わらない計算なんですよ。この数値が高いか低いか。じゃあなんでこの数値が低くなったのかっていうのはわかりません。正直わかりません。退化してるんじゃないかって説もあるんですけど。だって必要ならあるはずでしょ。必要なものを捨てませんよね。いらないから捨てるんです。つまり現代人は愛を必要としていない。そりゃそうですよ。愛ってなんなのかって種の繁栄ですよ、本能なんですよ。けど見てください。少子化ですよ。どんどん人口が減っていく。こんなに便利な世の中なのにですよ。普通動物っていうのは、住やすければ増えていくもんです。それが何故か減っていくんです。もうそれが人間の本質なんです。原因はわかりません。経済的なものもあるかもしれませんし、環境によるものかもしれない。世界規模で考えないといけない問題です。けどどんどん人口が減っていく。これはまちがいなく真実の数値なんです。いいですかやはり数値なんですよ、すべて。この数値からはなにが見えますか。そうです、愛情が減っていってるんです。これは人類が愛情をもう必要としていないっていうことなんですね。じゃあこのままでいいんですか、人類?っていうところじゃないですか。つまりこの薬はですね。人類の新しい一歩を踏み出す未来への希望なんですよ。わかっていただけましたか。
夫 全然わかりません。
医者 そうですか。つまり薬は飲まないといけないんです。
夫 そうなんです。薬は飲まないといけないんです。
医者 じゃあお薬出しておきますね。愛情を調整するお薬。これは一日三回、食後にお願いしますね。で一緒に胃薬、これも一緒に飲まないと胃があれちゃいますから。で、これは愛情に耐えられなくなった時にだけ飲んでください。一日二回まで、最低6時間はあけてください。
夫 あ、あ、ありが、(くしゃみが出そう)
医者 あとついでに花粉症のお薬も出しときますね。
夫 ありがとうございま、、、

夫、大きなくしゃみをする。
暗転


布団(可能ならベッド)があり、その中に妻が寝ている。
しかしその横に明らかにもう一人分のふくらみがある。
そのふくらみからくしゃみが聞こえる。
妻、目を覚ます。

妻 ワニもくしゃみをするのね。

夫が帰ってくる。

妻 おかえりなさい。
夫 ごめん、起こした。
妻 うとうとしてた。
夫 疲れた。
妻 病院行ったの。
夫 混みすぎ。この街は病人しかいないのか。
妻 そうかもね。お医者さんはなんて?
夫 薬は飲まないといけないって。
妻 そうね。
夫 悪かった。
妻 いいの。
夫 オレは病気なんだね。
妻 そう。
夫 病気だから薬を飲まないといけない。もちろん飲むよ。イヤなのもきっと薬を飲まないせいなんだって。
妻 お医者さんが?
夫 ああ、ところでその横は?
妻 横?
夫 そう。誰かいるの。
妻 ちがうわよ。
夫 じゃあなに。
妻 ワニよ。
夫 ワニ?
妻 ワニ。
夫 ワニってあのワニ。
妻 あのワニ以外にワニってある?

夫、布団の中を見ておののく。

夫 ワニだ。
妻 だからワニだって。
夫 なんでワニがいるの。
妻 野良なの。
夫 だからって連れてくることはないだろ。
妻 なぜ、
夫 オレがおかしいのか。
妻 かわいそうでしょ。
夫 だからって。
妻 ペットほしいか?って、いったでしょ。
夫 それとこれとは違うだろ。ワニはペットか?
妻 ペットよ。
夫 ワニは犬や猫とは違うだろ。
妻 だからワニだって。
夫 ワニは普通飼わないだろ。
妻 でも飼う人もいるでしょ。
夫 うちのベッドにワニはいらないんじゃないかな。
妻 なぜ?
夫 なぜって、
妻 なぜ?
夫 だから危険。そうワニは危険だろ。噛むよ。もし指をかまれてしまったら指がなくなってしまうかもしれない。そもそも命の危険すらあるんだ。
妻 大丈夫よ。今はワニの興奮を抑える薬もあるんだから。
夫 また薬か。

妻、起き上がる。

妻 なぜワニだとダメなの。 
夫 なぜってワニだよ。
妻 犬だって猫だって噛むでしょ。犬に本気で噛まれたら指がなくなるかもしれないし、狂犬病っていう恐ろしい病気もある。でも犬や猫は人間にとってとても大切なパートナーでしょ。
夫 飼うのも大変だろ。どうしていいかわからない。
妻 簡単よ。ワニってとても効率のいい生き物で、一週間に一回、ウサギとか鶏をまるまるそのままあげたらいいの。意外とお金がかからないのね。後は変温動物だから気温には気をつけなくちゃね。あとは檻とか水槽でもいいかもしれないけど、それは初期投資だからしかたがないね。
夫 ご近所だってイヤがるだろ。
妻 もうご挨拶しましたよ。お隣のゆいちゃんは、ガブちゃんって名前つけちゃって。
夫 それこそ小さい子に噛みついたりしたら。
妻 ガブちゃんはないわよね、噛みつかないもの。私名前つけたの、シャンカラちゃんっていうの。
夫 だけどもし、
妻 ちゃんと飼育すれば大丈夫ですって。ケガするのはペットのせいじゃないの。飼い主がちゃんと見てなかったりしつけしてないからなの。動物を飼う人がきちんと管理してこそ、ペットをかう権利があるの。
夫 でも、
妻 イヤなの?
夫 オレが?
妻 イヤなの?
夫 そうじゃなくて、
妻 違うの?
夫 ワニはそもそも飼っていいのか。
妻 まだね。
夫 まだ?
妻 今年の六月から飼えなくなるの。
夫 ほらやっぱりダメじゃないか。
妻 だから逆に今しか飼えないの。
夫 だからって。許可とかいるんじゃないのか?
妻 大丈夫。
夫 ダイジョブ?
妻 もう書類出してきたから。
夫 なにもきいてないよ。
妻 だって連絡とれないんですもの。
夫 病院にいたんだ。
妻 携帯の電源切ってたでしょ。
夫 勝手に。
妻 病院に電話して呼び出しした方がよかった?
夫 イヤそれは。
妻 あなたがいつ帰ってくるかわからないんですもの。ボヤボヤしてたら6月になっちゃう。
夫 何か月もかかるわけじゃ。
妻 でも2週間よ。
夫 しかたないだろ。順番なんだから。病人が多すぎるんだ。
妻 連絡ぐらいくれてもよかったじゃない。
夫 それは申し訳なかったけど。
妻 ワタシだってさみしかったの。ワニぐらい、いたっていいでしょ。
夫 だからってワニは。
妻 なぜイヤなの。怖いの?
夫 怖いわけじゃ。
妻 偏見じゃないの。
夫 偏見なんか、かわいいとは思うよ。
妻 ワニアレルギー?
夫 ちがうと思うよ。今までワニとふれあったことないけど。
妻 先に死なれると寂しいから?
夫 それはないな。
妻 こんなにかわいいのに。こんなにかわいいのに。
夫 でも。
妻 じゃあなんなの。
夫 ただ。
妻 ただイヤなの。
夫 いや、まあそうか。
妻 そう。
夫 単純に、単純にいえばそういうことになるんだけど。
妻 そう。
夫 イヤなんだ。うちのベッドにワニがいるってことが。
妻 どうして?
夫 ここはオレのベッドだ。うちのベッドにはワニは必要ない。
妻 落ち着いてよ。
夫 落ち着いてるよ。
妻 飲んでないの?
夫 薬か。
妻 ええ、
夫 もういいよ。
妻 どういうこと。
夫 オレがおかしいのか。
妻 もういいって。
夫 おまえはなんの病気なんだ。
妻 ワタシ?
夫 おまえはいったいなんの病気なんだ。
妻 それがどういう意味か分かってるの?
夫 どっちが病気なんだ。
妻 どっちが、
夫 みんな病気か。
妻 そうね。

夫、去る。


妻がビニール製の大きなワニをベッドから出す。

ワニ ワニからひとことよいですか。
妻 どうぞ。
ワニ 人間はよく我々のようにかわいい動物を飼ったり見たりします。そしていうのです。かわいい、かわいそう、かわいい、かわいそう。確かにわたくしのようにかわいいのは事実でしょうが。かわいそう、とういのはどういう意味なのでしょうか。たしかにわたくしは今、狭い変な場所にいます。そこには流れる川もなく仲間もいない、けどそれがかわいそうなのでしょうか。だからといって森に戻されて厳しい自然を生き残る自信がないから言っているのではないのです。わたくしもこんな狭い変な動物がうようよいる場所にいるのはイヤだなと思うことはあります。しかしわたくしたち動物は悲しいとも嬉しいとも思わないのです。逆にワニからいたしますと、ヒトという生き物ほどかわいそうなものはないと思うのです。だってそうでしょ、自ら死ぬという意味の分からない行動をとるのはヒトだけですし、同じヒト同士で争い果てには家族ですら殺しあったりする。ワニからすれば狂っているとしか思えない。けど実際にはワニはなにも思いません。ワニですから。ヒトに見えている世界とワニが見ている世界は違うのです。食べられるか食べられないか、敵か敵じゃないか、安全か安全じゃないか。そんな簡単な事すらできないヒトをあわれに思うのです。そしてかわいそうな事にヒトはもう交尾すらまともにできずにいるそうです。やがて我々ワニの祖先の恐竜のように大きく大きく膨らみすぎて途絶えてしまうのでしょう。ワニはそれをただ眺めているのです。恐竜が絶滅した理由をご存じですか。もちろん様々な説がありますが、多くの人が知っているのは隕石による気温の低下による氷河期の到来が一番でしょう。しかし、わたくしは別の理由ではないかと考えているのです。みなさんは不思議に思ったことはありませんか。恐竜はどうやって子供を作っているんだろうかということです。想像できますか。あれほど大きな大きな恐竜がどうやって交尾をしているのか。動物の交尾というのはほとんどが後背位で行います。おそらく恐竜もそうだったのではないかと思われます。だって恐竜をみるととても大きくて裏返ることが難しそうな気がしますからね。ですが後背位というのはメスの背中にオスがのるのです。あのでっかいでっかい恐竜がです。潰れますよ普通に。象も6トンほどありますが一分も時間をかけないそうですし、キリンなんかも一回の発情で200回程度マウントを試みて9割がた成功しないという話も聞きます。しかしですね。存在したわけです、恐竜は。おっと。進化論を否定している方には申し訳ないですが、恐竜がいたという前提で話をしていますのでご了承ください。つまり恐竜は交尾をしていたのだという事実です。そしてそれはおそらくかなり困難なものだったのではなかったろうかと思えるのです。つまり体をどんどんと大きく進化していった先に恐竜は生殖が困難になり絶滅していったのではないかと思うのです。ヒトは恐竜に比べれば体は大きくありませんが、別の意味で大きくなりすぎたのではないでしょうか。どんどんどんどんと大きくなりすぎてもう生殖ができなくなっているのです。生命の危機も空腹も覚えず性欲すらも忘れてゆっくりと人類は滅亡し、そのあと残るのはわたくしたちワニなのです。ワニはヒトのように愚かではありません。ただ黙々と生きるのみです。これが難しい。生きることそれには生き続けるという意味と次の生へつなぐという意味もあるのです。そうやってワニは生き続けるのです。ワニはワニとして生きる。そういうことじゃないですか。ヒトはヒトなのですか? ヒトはヒトとして生きていますか?

妻がワニを布団の中になまめかしく誘い込む。
暗転。


夫とワニ。

夫 オレはワニじゃない。
妻の声 ワニだってあなたじゃない。
夫 今、おまえがいなくなってしまうと考えると死にそうなほど悲しい。
妻の声 あなたが帰ってこないから。
夫 本当なんだ。胸が本当に張り裂けてしまいそうになる。
妻の声 けどもうワタシはいない。
夫 そんな事ってあるか。
妻の声 一年も帰らないから。
夫 病人が多すぎるんだって。
妻の声 連絡してって。
夫 それは申し訳なかったと思ってる。
妻の声 ワタシはワニに食べられたという事なの?
夫 おまえはワニに食べられたっていうことなのか?
妻の声 そうなの?
夫 かと思ってたんだけど。
妻の声 夢かしら。
夫 誰の?
妻の声 ワタシの夢じゃないのかもしれない。
夫 夢だといいのに。
妻の声 夢なら薬は飲まないのかしら。
夫 薬を飲まない夢なら薬を飲まないだろうし、薬を飲まなきゃいけない夢なら薬を飲まなきゃいけないだろ。
妻の声 あなたはどうするの?
夫 薬は飲まなきゃいけない。
妻の声 ええ、そうね。
夫 けど薬を飲むのはイヤなんだ。
妻の声 なぜ?
夫 愛情がなくてもいいんじゃないか。
妻の声 愛情は必要でしょう?
夫 何のために。
妻の声 何のため? 愛情がないとあなたは狂ったようになる。そしてワタシにひどいことを言う。もしかしたら暴力をふるうのかもしれない。ワタシはあなたに殺されるのかもしれない。
夫 オレはワニじゃない。
妻の声 ヒトでしょ、あなたは。
夫 薬を飲まなくてお前を愛してなくなってもオレはワニにはならない。けど薬を飲んでおまえを愛してるオレはヒトなのか?
妻の声 薬が切れてきたのね。じんわりと汗をかいてる。薬が切れてる。ワタシの声も聞こえなくなるの。

夫、ワニの空気を抜こうとする。
妻が必死に「やめて」を連呼するが、夫が空気の栓を外すと静かになる。

夫 もし人類最後の男と女になったらどうなるんだろう。そこに愛はあるだろうか。テレビや映画なら美男美女が演じるんだろうけど。実際はオレやおまえみたいな普通の人間がなるんだろ。人類最後だからおまえを選ぶのか、おまえを選んだら人類最後だったのか。どちらだろ。どちらでもいいか。同じかもしれないし同じじゃないかもしれない。でもきっと思い続けるんだ。オレは人類最後だからおまえを選んだんじゃないだろうかって。薬を飲めばそんなの関係なくなるんだろうけど。けどもしオレが人類最後の男なら薬は飲まない。もちろん薬は飲まないといけない。けど飲んでも飲まなくても一緒だから。愛があろうがなかろうが。人類の為に子供を作らないといけないんだから。それに愛があればいいんだろうけど。愛がなくったって作らないといけない。まあ人類最後って設定なんだから失敗する前提なんだけどね。そうなると悲しいな。薬を飲まなきゃいけないのに飲んだって飲まなくたって失敗する。それなら薬を飲んだ方がいいんだろか。オレは薬を飲んだんだ。そのうえで失敗したんだって自分に言い聞かせることができる。けどね、あえてそれをしないっていうのもアレの形じゃないかな。アレだよアレ、なんだっけ。あ、愛だ。愛ってなんだ? ああ、そうだった。その逆でもいい、人類最初のアダムとイブにはアレはあったんだろうか。子供は作らないといけない。増えないといけない。スキでもキライでも増えなきゃいけない。そもそもスキキライなんてないかもしれない。アレを飲もうが飲むまいが増えなきゃいけない。動物にアレってあるのかな? 近さと強さ。じゃあ人間はなんなのか。アレってなんだろうか。そもそもアレって必要なのか。そもそもアレなんか存在するのか? アレってなんだ? どうでもいい。アレは飲まなきゃいけない。人間にはアレが必要だっていうけどね。人間がアレという概念を作り出したときに、人間は動物ではいられなくなったんだと思うね。アレの実を食べた人類が落ちた先はまだこの街に続いている。

妻の声 ああワタシの愛情はどうしたらいいの?
夫 アレだよアレ。飲めばいいんだよアレを。もしくは飲むのをやめるのか。
妻の声 そうね。

そして空気が完全に抜けたら、黙って時間をかけて、丁寧かつキレイにワニをたたんで去る。

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コチラをご利用ください

使用許可について

基本無料・使用許可不要。改訂改編自由。作者名は明記をお願いします。
上演に際しては、観に行きたいので連絡を貰えると嬉しいです。
劇団公式HP https://his19732002.wixsite.com/gekidankita

劇作家 松永恭昭謀(まつながひさあきはかりごと)

1982年生 和歌山市在住 劇団和可 代表
劇作家・演出家
深津篤史(岸田戯曲賞・読売演劇賞受賞)に師事。想流私塾にて、北村想氏に師事し、21期として卒業。
2010年に書きおろした、和歌山の偉人、嶋清一をモチーフとして描いた「白球止まらず、飛んで行く」は、好評を得て、その後2回に渡り再演を繰り返す。また、大阪で公演した「JOB」「ジオラマサイズの断末魔」は大阪演劇人の間でも好評を博した。
2014年劇作家協会主催短編フェスタにて「¥15869」が上演作品に選ばれ、絶賛される。
近年では、県外の東京や地方の劇団とも交流を広げ、和歌山県内にとどまらない活動を行っており、またワークショップも行い、若手の劇団のプロデュースを行うなど、後進の育成にも力を入れている

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