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もののけ姫。宮崎駿の考える森と人の関係 ③

日本には、原材料となる鉄鉱石は乏しいのですが、火山国の特性として上質の砂鉄が大量に採掘出来た為に、砂鉄を炊いて鉄塊を精製する特殊な製鉄技術が発達しました。この日本独特の製鉄技術を「タタラ製鉄」と呼びます。

作中でアシタカが訪れた村のことを甲六は「タタラ場」と呼んでいます。特に村には特定の名前はなかったことが分かります。
この製鉄の方法では、木炭を作るために大量の木材が必要になること。そして砂鉄を収集するために美しい水場があることが必須条件でした。そこで素晴らしい条件が整ったシシ神の森にエボシ御前は目をつけたのです。

村に着いたアシタカは客人として迎え入れられます。一方で畏怖されている森の奥から怪我人を軽々と運び出して連れてきたこと、異質な文化をもっていることから警戒もされます。
通夜をしている牛飼いたちの話から、自分が射たタタリ神がシシ神の主であり、死に至らしめた鉄の弾丸を放ったのが、エボシ御前であることに確信を得ます。
そしてエボシと対談する機会を得た際にアシタカは自身の目的を告げます。

エボシは合理主義者です。飢饉や戦争などで憔悴しきった人々を組織して、平等に暮らせる国を作ろうとしています。そのための交渉道具・または軍事力をもつために石火矢を開発している最中だったのです。
アシタカは怒りますが、当時弱い立場であった人々に等しく扱っているエボシを慕う人々の姿をみて悩みます。

そこへ「もののけ姫」と呼ばれているサンが戦闘面をつけて登場します。前回少しお話しましたが、彼女がつけているお面は土偶のような表情をしています。わざわざ仮面をつける理由としては、「神がかっている」化身としての姿であることを象徴しています。わかりやすいのが「なまはげ」化です。
「わるいこはーいねえがー」秋田県の風習ですね。

そう考えてみると分かり易いですね。つまるところ「なまはげ」にエボシは銃を向けているのです。信仰が人々の暮らしを保護できるのか。と。

エボシとサンの競り合いを中止させたアシタカはサンを伴い村を出ます。(その際に致命傷を負います)
倒れたアシタカに対してサンは助けた理由を問います。そのあとに出てくるセリフがコピーに採用されます。

「生きろ」

本当は続きとして「まだ言うか、人間の指図は受けぬ!」→「そなたは美しい」と続きます。

なぜ糸井重里さんはこちらの一言を採用しようとしたのでしょうか。死にいりそうな細い一言です。

僕なりの考察なのですが、サンは人間に捨てられ、狼にもなりきれない「中途半端さという劣等感」を抱えている存在であり、当人も人を恨むことで自分が自分であることを確認している節があります。

「否定」を周囲から浴びせられ続け、居場所を探している純粋な少女の中に現代(当時)の少年少女を重ねて糸井さんは見ていたのではないでしょうか。ちょっと言葉を変えて、「人間」を「オトナ」にアレンジしてみましょう。

「生きろ」「まだ説教かよ?オトナの指図は受けない!」「君は美しい」

自己肯定というものがゼロに近い状態だったサンが初めて人間から受けた肯定の言葉です。宮崎駿による(建前上は)最後の作品になるであろう「もののけ姫」コピーは言うなればダイニングメッセージになりかねない。

そこで死に体の宮崎駿から若い純粋な魂に向けてのメッセージとしてチョイスしたのではないでしょうか。僕なりの考察ですからね。

さて、今回はここまでです。たぶん次回が最後になるのではないでしょうか。舞台はシシ神の森に移ります!





埋もれてしまっている宝石がたくさんあるように思います。文化だったり、製品の場合もあるけれど一番は人間の可能性です。見つけて、発信してよりよい世界を共に生きましょう。