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奄美大島の歴史

20241030 随時更新、加筆修正

奄美大島の歴史

奄美大島(あまみおおしま)は、鹿児島県に属し、日本の南西部に位置する島です。豊かな自然と独特の文化を持つこの島の歴史は、古代から現代に至るまで様々な時代の影響を受けてきました。

古代と琉球王国との関係

奄美大島の歴史は、少なくとも古代にさかのぼります。考古学的には、島には縄文時代から人が居住していた痕跡が見つかっており、琉球列島と日本本土の間の文化的な交流が行われていたと考えられています。古代の日本では奄美大島が「南島」または「南方」として記録されており、重要な交易の拠点としても知られていました。

14世紀頃になると、琉球王国の影響下に入ります。琉球王国は南西諸島全体を支配下に置き、奄美大島もその一部となりました。琉球王国時代には、島の住民は農業と漁業に従事しながら、主に琉球王国に税として特産品を納めていました。

薩摩藩の支配

1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻し、奄美大島を含む一部の琉球諸島は薩摩藩の支配下に入りました。奄美大島は鹿児島と琉球王国の双方に税を納める二重の負担を強いられ、特にサトウキビ生産に従事させられたため、住民の生活は非常に困難なものでした。

明治以降

明治時代になると、1879年の琉球処分により、奄美大島は正式に日本の一部とされ、鹿児島県に編入されました。近代化が進む一方で、生活の困窮や伝統文化の衰退も進みました。

戦後とアメリカ施政権時代

第二次世界大戦後、1946年から1953年までの間、奄美群島はアメリカの統治下に置かれました。この期間中、奄美大島は日本本土との分断を経験しましたが、住民の強い復帰運動により、1953年に日本に返還されました。

現代

日本への復帰後は、観光や農業が主要な産業となり、特に自然環境や独自の文化が評価され、世界中から観光客が訪れるようになりました。また、2010年代には奄美大島の自然がユネスコの世界自然遺産候補地として評価され、2021年には正式に登録されました。

奄美大島の文化

奄美大島は、独自の言語や音楽、芸能があり、特に「奄美シマ唄」は島の歴史や自然、生活を反映した独特の歌唱法で知られています。また、豊かな自然環境と共に育まれた工芸品や、島特有の祭りや行事も受け継がれ、島のアイデンティティとして大切にされています。

奄美大島の歴史は、地理的に孤立しているにもかかわらず、多様な文化や勢力の影響を受け、独自の文化とアイデンティティを形成してきました。その歴史は現在も続いており、自然と伝統文化の保護が進む中で、新たな発展が期待されています。

奄美大島は、その歴史の中でさまざまな勢力の支配下に置かれてきました。以下、奄美大島の歴代の支配者について簡単に説明します。

1. 古代〜中世:琉球王国

古代から中世にかけて、奄美大島は琉球諸島の一部と見なされており、当初は独立した部族社会や集落によって統治されていたと考えられています。12世紀から14世紀頃、琉球王国が成立すると、琉球王国の勢力が奄美大島に及ぶようになり、島は琉球王国の支配下に入りました。琉球王国の時代には、貢納(税)が課され、琉球王府に特産品が納められました。

2. 江戸時代:薩摩藩

1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻し、奄美大島を含む奄美群島を支配下に置きました。これにより、奄美大島は形式上は琉球王国の一部とされつつも、実質的には薩摩藩の統治下に入りました。この時代、島の住民は薩摩藩に対してサトウキビや米などの特産品を納める重税を課され、生活は困窮を極めました。

3. 明治時代以降:日本政府

1871年の廃藩置県によって、薩摩藩が廃止され、奄美大島は正式に鹿児島県の一部となりました。1879年の琉球処分で、琉球王国が廃止され、奄美大島は完全に日本政府の統治下に入ります。

4. 戦後:アメリカ軍の統治(1946年 - 1953年)

第二次世界大戦後、奄美大島は1946年から1953年までの間、アメリカ軍の施政権下に置かれました。この期間、住民は日本本土との交流が制限され、生活や文化に大きな影響を受けました。奄美群島の日本復帰運動の結果、1953年に奄美群島は正式に日本に返還されました。

5. 現代:日本政府と鹿児島県の統治

日本への復帰後、奄美大島は再び鹿児島県の一部となり、現在に至っています。現在では、奄美大島は日本の一部として観光や文化保護が進み、奄美独自の文化や自然環境が国や県によって保護されています。

奄美大島の歴史は、琉球王国、薩摩藩、アメリカ、そして日本政府とさまざまな支配を受けながら、その独自の文化と伝統を維持し続けてきたと言えます。


奄美大島 古代〜中世 貨幣
奄美大島の古代から中世にかけての市井の人々の生活は、本土や琉球王国、東アジアの影響を受けながらも、独自の自給自足的な社会が主でした。この時期、奄美大島を含む南西諸島では、貨幣が普及していないため、物々交換が主な取引方法として用いられていました。人々は日常生活で必要な物資や食料を、農作物や魚介類、木材などの物資で交換していました。

古代〜中世の市井の人々の生活

奄美大島の人々は、漁業や農業を中心とした生活を営んでおり、米やサトウキビ、芋類を栽培していました。また、海に面しているため、魚介類や海藻類の採取が重要な食料供給源で、木材や竹なども採取して家屋の建材や日用品に使われました。集落ごとに自給自足の生活が営まれ、物資や労働の交換が行われました。

交易と貢納

奄美大島は琉球王国の支配下にあったため、物々交換による取引が島内で行われる一方で、島外への交易や貢納も重要でした。琉球王国の統治のもと、島の特産品(特に染料の原料となる「フクギ」や「コバルト貝」など)は、貢納として琉球王府に納められ、これが琉球王国の貿易品として日本本土や中国との交易にも使われました。このため、奄美の人々は貢納品の生産に従事することが多く、物資のやり取りも含めて社会生活が営まれていました。

貨幣の使用

当時の奄美大島では、一般的に貨幣経済が浸透していなかったため、貨幣は日常生活ではほとんど使用されていなかったと考えられます。貨幣が使用されるようになるのは、薩摩藩が支配する江戸時代に入ってからです。この時期には薩摩藩が特産品としてサトウキビを奄美で栽培させ、貨幣経済も徐々に広がりを見せることになりますが、古代から中世にかけては、貨幣よりも物々交換が主流でした。

このように、奄美大島の古代から中世の市井の人々は、独自の物々交換を通じた経済活動を営み、外部との貢納や交易にも関わりながら生活を維持していました。

琉球王国時代の奄美大島
琉球王国時代の奄美大島(おおむね14世紀から1609年まで)は、琉球王国の支配下に置かれ、島の経済や文化は大きく琉球本土の影響を受けました。この時代、奄美大島は琉球王国の統治システムに組み込まれ、他の南西諸島と同様に貢納(税)制度が導入されました。また、琉球王国の交易ネットワークの一端としても機能し、島の特産品が貢納品や交易品として重要視されました。

琉球王国による支配

琉球王国は、15世紀に中山王・尚巴志(しょうはし)によって統一されて成立し、その支配は奄美大島を含む南西諸島全体に及びました。琉球王国は、朝貢貿易(中国・明との交易)や、日本や東南アジアとの中継貿易で栄え、奄美大島もその一部として貢納を通じた経済活動が行われました。奄美大島の人々は、島の特産品を琉球王府に納めることで、統治の一端を担わされていました。

貢納品と産業

奄美大島では、琉球王国への貢納品として、特に織物や染料の材料が重要視されました。たとえば、「大島紬(おおしまつむぎ)」の前身とされる織物が製造され、また、染料の原料となる植物(フクギや紫草など)も貢納品の一部でした。また、真珠母貝やコバルト貝なども珍重され、これらは琉球王国が対外交易で用いる品として奄美大島から供給されました。

奄美大島の人々の生活

琉球王国時代の奄美大島の人々は、貢納制度による負担がありましたが、農業や漁業、織物の生産を中心とした生活を営んでいました。農作物は主に米、芋、雑穀などで、自給自足の要素が強い生活でした。漁業も重要であり、特に周囲の豊かな海域での漁業が盛んに行われました。

文化と琉球王国の影響

奄美大島の文化は琉球王国の影響を受けながらも、独自の発展を遂げました。例えば、音楽や舞踊は琉球文化の影響が見られる一方で、独特の歌唱法を持つ「奄美シマ唄(しまうた)」など、奄美独自の文化も形成されました。奄美の言語も琉球語の影響を受けていますが、独自の言語体系が発展しており、現在でも奄美方言として残されています。

琉球王国と薩摩藩による支配の交代

1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻し、奄美大島を含む奄美群島は薩摩藩の支配下に入りました。これにより、奄美は琉球王国と日本(薩摩藩)という二重の支配を受けることとなり、貢納品の生産負担がさらに増加しました。薩摩藩による統治のもと、奄美大島は琉球王国の支配から実質的に離れ、日本本土との関わりが強まっていきます。

琉球王国時代の奄美大島は、貢納制度を通じて琉球王国の経済活動に組み込まれ、文化や経済面での影響を受けましたが、同時に島独自の文化や生活様式も維持されていました。この時代は、奄美の独自性と外部勢力からの影響が交錯し、複雑な歴史の形成に寄与しています。

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