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結婚とは何かを『光る君へ』をみて考える

昨日もまた『光る君へ』を食い入るように見た。これを小学生か遅くとも中学生までには観たかったなと思う。小学校の頃、『まんが日本の歴史(平安時代中期)』を何度も読んで紫式部に憧れていたのだ。あの頃、観ていたらもう少し違った価値観を持っていたのではないかと考えたりする。そのくらいこの大河ドラマは私にとってインパクトが強いということだ。

昨日の『光る君へ』で、まひろ(紫式部)は道長との子供を身ごもってしまう。正真正銘のW不倫である。夫である宣孝はそのことを知っている。まひろは「別れてほしい」というが宣孝は「誰の子であろうが、わしの子だ。一緒に育てる」というのだ。「なんでも受け入れる」と言ったもののそこまで受け入れるのかと思った。宣孝という人はいったいどういう人なのか。

ところで、明治憲法では、夫のある女性が夫以外の男性と性的関係を結ぶいわゆる不倫を姦通罪として、相手の男性と共に法的な犯罪としている。一方、男性は妾を囲ってもお咎めなしだったのだ。この不公平よ、と思う。現代の長い間、男性は結婚していても他の女性と性的関係を結んでもよく、女性には禁じられていたということだ。

そして、最近Twitterのおすすめに流れてきたのは、社会的地位のある男性が、妻に不倫をされて探偵を使い用意周到に現場をおさえ、離婚するという過程を発信したものだった。そんなにじっくりフォローしていたわけではないけれど、その徹底ぶりは圧巻のひとことだった。現在は親権を手に入れるための戦いを発信されるようだ。

わたしはなんだかこの宣孝の寛容も、Twitterの制裁も根は同じに感じる。ダメなことを許すか、罰するかの違いで、ダメなことには変わりはない。結婚をすれば、自分の体には鍵がかけられてしまう。夫以外に性的関係を許してはならないという鍵だ。

鍵はかけられてはいるものの、生身の人間だから、体は変化し、心はうつろい、関係性だっていつまでも同じというわけにはいかないだろう。にもかかわらず、何十年にもわたって女の体には鍵だけはかけられたままなのだ。(現代は男だってそうなのだけど)そして、自分の体を自由にするには、鍵を外す、つまり、婚姻関係を解消するか、鍵をつけたまま自由にするかしかない。後者は道徳的にも法律的にも不貞と見なされる。

結婚とは自分の体に鍵をかけることだ。その状態で不満のないあいだはいいけれど、不満になった場合、どんなに文句を言っても泣いても、誰も鍵を外して、自分を自由にはしてくれない。自由になりたいのなら、自分で行動を起こすしかないのだ。その勇気を持たなくてはいけない。

それが嫌なら、二人の間に不満が生まれないように、努力を重ねる必要だってある。鍵の存在に気づかないくらいに、二人で幸せにいられるためには、二人で努力しなくてはいけないのだ。努力なしで何十年も同じパートナーと幸せでいられるというのは困難だとおもう。

別れるにしても、不満の生じないよう努力するにしても、どちらにしてもめんどくさい。一人で生きていたほうがいいんじゃないか。そんな気になってくるのだった。でも人はなぜか結婚してしまうのだよな。それが不思議だとおもうのだった。






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