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結婚する気はなかった。子どもを産む気もなかった。(2)

書くというのは、整理するということだ。

ということをつくづく感じる。
書くことによって自分の気持ちを再認識し、それにより自分を慰撫している己を感じる。
大人の私と、子どもの私の思いが交差して、わだかまりがほぐれていく。
読んでいてプラスになる話ではないけれど、私は私のためにこれを書いている。



親の暴力や暴言を、当時の私は誰にも言えなかった。
私のためにしてくれていることだから、これも愛情表現なんだと思っていたからだろう。
その裏には悲しみがあったし、怒りもあったのだけれども、それをどのように表現していいのか分からなかったし、相談することはとても苦手だった。


私は夜に泣くと分かりやすく目が腫れて、なおかつ治るのが遅い。
けれども、当時の先生方からは誰からもそれを指摘されたことはなかったように思う。

いや、指摘されても誤魔化していたのかもしれない。
当時何かあったのではないか、と聞いてきたのは、覚えている限り2人だけだ。

ひとりは、部活動の先輩だったY先輩。
もうひとりは、当時、教育実習生だったA先生。

人の名前を覚えることが心底苦手な私は、申し訳ないが下のお名前しか覚えていない。
悪癖だなぁと思うが、こればかりは年々ひどくなっている気がする。
中学も高校も大学も、なんなら数年前まで一緒に働いていた人や利用者さんさえも、よほど好きかよほど嫌いだと思った相手以外は忘れてしまっている。
SNSがなければ、おそらくもっと忘れてしまっていただろう。


部活動は吹奏楽だった。
音楽は好きだったが、器楽は苦手だった。
楽譜を読むのが不得意だった。
耳コピで誤魔化しながら練習したが、合奏自体は好きだった。

困ったのは朝に起きられないことだ。
遺伝なのか朝にひたすら弱く、起立性調節障害と言われていた。

この病気には明らかな改善方法がない。
朝はひたすら気持ちが悪く、めまいで吐くことも珍しくなかった。
しかし午後になると元気になるので、よく怠けていると言われることが多い病気だ。

10年以上かけてゆっくりと困難を克服していくしかない、と医者には言われていた。

そんな身体とは知らずに入部した吹奏楽部は、当たり前に朝練があり、医者の診断がつくまではまわりの目も厳しく、しんどかった覚えがある。
幸い友人に恵まれたのと、朝練に間に合う時間に起きてからゆっくり準備していれば通常の授業には間に合うように登校できたので、不登校になることはなかった。

それでも元々の体の弱さのせいか無理をしていたからか、2週間に1度は熱を出した。

そういったこともあり、正直、先輩から可愛がられるような後輩ではなかったが、Y先輩は温和な方でよく面倒を見てくださっていた。

Y先輩と何の話をしていたのかは覚えていないが、練習中に仲良く話をしていたとき、ふいに戯れて先輩が手を振り上げた。
思わず頭上に手を構えてガードした私の怯えっぷりに先輩のほうが驚いていた。
そして

「大丈夫なの、何か家でされているの?」

と労るように、そして言いにくいことを聞くようにおずおずと問われた。

「何もないです」

と、とにかく誤魔化したような気がする。
ただなんとなく嬉しかった。
相談しても自分の頭の悪さが問題である以上どうにもならないと思っていた私は、それ以上先輩と何か話をすることはなく、そのままY先輩は卒業を迎えて関係は途絶えた。

嬉しかったです、と伝えておけばよかった、と後から思った。

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