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桜田門外ノ変のびっくり

 幕末……世の中が沸騰しかけた時に、全国を揺るがす一大事件が起きました。

 それはまさしく、250年続いた徳川幕府の威厳がぐらつく、それまでは思いもつかなかったような……ありえない出来事でした。

 安政7年3月3日(1860年3月24日)、よりによって幕府の本拠地である江戸城桜田門の前で、大老 井伊直弼が暗殺されたのです。

 これが歴史の教科書にも出てきた「桜田門外の変」です。

 幕府の要職であるとともに彦根藩の大名でもありますから、当然徒歩で移動していたんやないです。

 現場は井伊直弼の箱根藩邸からわずか600メートル。
 大名行列の人員は60名でした。

 かたや襲撃隊は18名。

「赤鬼」と、かげで揶揄された井伊直弼は、いわゆる、強圧的で、その強権をもって反対派を厳しく弾圧・粛清したために、多大な恨みを買いました。それでも、人から嫌われることなど屁とも思わなかった、それなりに特殊な性格というか才能があったのでしょう。

 井伊直弼がやった中で、一番有名なのが、いわゆる「安政の大獄 」で、そのあおりをくって我が山口(萩)の吉田松陰も、江戸の伝馬町牢屋敷で斬首されました。実にもったいない。

 ごく最近になり、新たな資料が発見されました。
 それは暗殺事件の真相に迫るものでした。
 最初に籠に向けて発せられた短筒(ピストル)が勝負を決めたというのです。

 最初の銃弾が、籠の中であぐらをかいて座っていた直弼の右太ももから腰を貫通していたので、その瞬間からおそらく下半身が不随になったと思われ、それが居合の達人でもあった彼が有事の直後に一太刀も反撃せぬまま、刀も抜かぬままに首を討ち取られた理由だとすれば、すべてはつじつまがあいます。

 大老、井伊直弼。 今でいえば、ほぼ首相のような国家の最高責任者たる大幹部です。

 数日前から、さらに当日の朝も、井伊直弼の元には脱藩水戸浪士たちの襲撃計画の動きがあるとの報告がなされていました。けれども直弼はその警告を黙殺し、籠の補強も警備の増強も行いませんでした。

 その理由のひとつは、自分自身の剣の腕に絶対的な自信があったこと。
 そして何よりも、幕府のゆるぎない威厳への過信だったのだと思います。
 そんなこと、あるわけないという一般常識。

 さて、今から見れば、これはいわゆるテロです。
 そして襲撃した水戸浪士らは、まぎれもなくテロリストたちです。

 いかなる理由があろうとも、歴史において、暗殺、テロ行為が時代の流れを好転させたためしがない……と言ったのは司馬遼太郎だったか? 忘れましたが……。

 我々は、どこかの哀れな国のように、テロリストを英雄視する社会や風潮は、絶対に作ってはいけません。
 暗殺やテロは、いくら正義や大義名分があってその時の民意の後押しがあっても、決して許すべき、許されるべき行為ではないのです。

 さて、井伊直弼に最初の一撃を放ったとされる水戸浪士の 森五六郎 という人の辞世が残っています。

 彼は事件後すぐに自訴(自首)し、文久元年(1861年)斬首刑に処されました。享年わずか 24歳)

 繰り返しますが、いくら時代が沸騰していたとしても、やはり森五六郎がしたことを、私はある種、さめて冷たく見ざるをえません。

 けれども、けれども……この辞世を読み、なんとも言えない、救いようのない悲しみに襲われるのです。

 いたづらに 
 散る櫻とや 
 言ひなまし 
 花の心を 
 人は知らずて

 大義のために簡単に命を捨てる過激な自分をバカにするのはかまわないが、散る花の気持ちなんて、誰にもわからんでしょうが……

 と、私には解釈できます。

 ついでに「言ひなまし」というのは、井伊直弼 に、かけてるんでしょうな……きっと……確証はないですが。

 最後になりましたが、殺された井伊直弼。

 将軍の次の最高職にある大老という名から、なんかめちゃ年寄りのイメージがありますが、
殺されたのが45歳。
 今の私よりひとまわり以上も若いんでっせ?

 これが一番びっくりです。

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