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特別支援学校の卒業式

 2016年3月9日、山大付属特別支援学校 の、卒業式の話です。

 自分が書いた歌だけでなく、生徒たちのいろんな表情や行動を見て、やはり自然と目がしらが熱くなりその後涙がしみ出てきます。

 涙というものは、実は一癖も二癖もある非常に複雑な液体なのですが、この場合の涙は、かわいそうだからという同情から出るのではないのです。

 ひとつは、彼らが一生懸命に生きている姿が感動的だからだと思います。

 次に心から「おめでとう! 」と思えるからでしょう。その思いが、なぜか普段以上に感情移入され、感極ってしまう。

 さらに、この先の不安や苦労や壁、保護者の方の思いを勝手に想像して、混乱したままでの複雑な涙。

 そして一番重要なのは4つめの涙。
 邪心がない純粋な人間の生きた姿、仲間との信頼関係や絆を見て思わず出る涙。

 ものすごく美しい、海に沈む夕陽を見つめてわけもなく涙がこみあげるような、たとえるならそんな感覚です。

 つまり我々が日々つちかってきた要領の良さや合理性、さらには効率化のために、どんどん失ってきたもの。置き去りにしてきたもの。

 支援学校の子らは、おそらくほんとうに学校やせんせやクラスメイトが大好きなんだと思います。 少なくとも私にはそう見えるのです。

 そんな彼ら彼女らの中の多くが、卒業にあたり、学校やせんせや後輩たちに「修学旅行が楽しかった」とか「課題の発表を頑張った」とか「水泳を頑張った」とかといっしょに、ごく自然に「ありがとう」という感謝の気持ちを伝えるのです。

 自分自身をふりかえると、幼稚園・小学校・中学校・高校と、次々と卒業してきた中で、本心としての「ありがとう」という気持ちは、思いついたことがありませんでした。
 親にもせんせにも友達にも。
「そんなんクッサイ」と最初から除外していました。自分自身を見つめ感じることが精一杯で……。
 あたりまえの環境の中で自分がいかに幸せになれるか? そんな感じだったような気がします。

 支援学校の子らは、特別に支援を受けているから……普通より大人から世話になっているから「ありがとう」というのでしょうか?

 私は違うと思います。

 もっともっと大きな、普遍的な何かを本能でつかんでいるから……知っているからなのだと思えて仕方がありません。

 まだまだ私も、このあたりの腰骨をとらえきれていませんが、とにかく重要なヒントがそこにあるように思えてならないのです。

 話は変わってウチの父親は、ご存知のようにアルツハイマー病という記憶障害があります。しかもアルコール依存性が突発的な発症を招いた自業自得の病です。
 酒のために膵臓と肝臓が腫れあがり、余命2カ月といわれた状態から、私が山口に強制疎開させたのが4年前。

 誰の目にもほとんど廃人にしか見えなかった状態から、田舎の優れた環境で取り組んだリハビリにより、最近はその場だけのやりとりだけは人並みにできるように人間化しました。
 それでも、高齢者の病というものはしぶといもので、記憶だけでなく、知能や判断力も明らかに一般人からは劣っています。

 その父親には昔から一貫して、他者に対する感謝の気持ちが一切ありません。

 毎日、
「自分ほどいい人間はこの世に存在しないのに自分ほど不幸な人間はいない」と、思い悩んでいます。

 生きていても仕方がない。
 好きな時に寝て起きて、
 好きなだけ酒を飲んで、
 自由きままに過ごしたい。

 それで火事をおこそうが、ガス爆発をおこそうが、自分が死ねばまわりはどうなってもかまわない。
 何か不慮のトラブルが生じ、自分の子供に責任がかぶっても、そんなのは当然、子の務め、基本的義務の範疇だと信じて疑いません。

 これはいったい、どういうことなのでしょうか?

 特別支援学校の子らと比較しては、あまりに彼らに失礼なのですが……。
 ホントに、爪の垢を煎じて飲ませたい気分です。

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