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【魂の存在】 

 親近者の死は、生や死の問題と正面から見つめ合う機会を捻出するために存在するイベントなのかもしれない。
 頭の中で随時繰り返される単語は「魂」である。この事象だけをとっても「魂」は人間、特に私にとって重要なテーマであるに違いない。

「魂」をつきつめて考えると、おそらく「意識」になるのだと思う。
 私はその「意識」が、必ずしも脳の産物だとは考えていない。これが何を意味するのかというと、脳が医学的に機能停止……つまり脳死状態になっても意識は存在しているのではないか? という可能性である。

 これをさらに進めると、嫌でも「死後の魂」の存在を認めることになってしまうのだが、今の私はさらにその魂の、生前の活動にも注目しているから脳内が穏やかでない。

 夢野久作は、その奇書『ドグラマグラ』の中で、 脳はそれ自体がクリエイティブな思考をするわけではなく、体内のあらゆる細胞から送られてくる情報を処理しているだけの、所謂昔の電話交換手のようなものだと言いきっている。

 美味しいものを食べて幸せになるとき、脳が味を感じてそれを喜んでいるという意識を生み出しているのではなく、口や目や舌や胃袋……それらの細胞が喜んでいて、その情報……つまり意見や感覚を、脳は編集しているだけだと……。

 若い頃の私はこの考えにいたく感銘を受けたのだが、その時はあくまで文学的というか、ひとつのメタファーのセンスの方に気が行った。

 けれどもその時に気付いたのは、人生を幸せに生きていくための重要なテクニックのひとつが、自分の脳を自分が管理することであるにちがいない。ということだった。

 この時の「自分」は、先に述べた公式に当てはめると「意識」であり、さらに「魂」でもある。
 
 脳自体は、先に記したように、たいして賢くはない。だからアインシュタインの脳も、認知症を患う前の健全だった頃の我が父親の脳も、知能指数はともかく、解剖すると形やサイズや構造……つまりハードウェアにたいした差はないことがわかっている。

 またアルツハイマー型認知症の場合は、脳のメモリー機能を担う細胞が壊れて萎縮すると言われているが、この点に関しては、私はまだ半信半疑である。

 さて、脳は賢くないと述べたが、決してバカではない。そこが曲者である。この国の官僚レベルだと考えればわかりやすい。 一応マジメなふりをしてコツコツと仕事はこなす。基本的なIQは高い。なかには東大を出たが応用が効かない、仕事ができない、というのも少なからず含まれている。

 我々が自分の脳を使うとき、意識的、という表現を使う。これは自分が脳をコントロールしている、もしくはしようとしている状態のことである。

 問題は「無意識」と呼ばれる状態。白血球の動きなどがそれにあたる。

 実は、脳は肉体の主人たる者の視線や監視がない時に、さまざまな悪事を働くようなのである。それはそもそも、脳の本質が官僚的、しかも木っ端役人だからでもある。

 官僚の特徴のひとつが保身主義。つまり責任逃れだ。 自分の仕事上のミスをごまかすことに多大な労力を使う。もちろん肉体の主人にバレないように。

 その手口のひとつが、たとえば胃潰瘍であったり偏頭痛であったり肩凝りや腰痛。最もわかりやすいのが椎間板ヘルニアだという説がある。

 要は、意識が抱き込んだストレスの処理能力不足なのである。
 偏頭痛や肩凝りがあると、肉体の主人……つまり意識は、そちらの不快感に気をとられてしまう。その間に、無意識な部分で、脳はさまざまな隠ぺい工作、まあ、ズルを行う。この仕組みが政治と非常によく似ている。
 
 タレントのスキャンダルなどの話題が大きく取り扱って報道されるタイミングを見計らって、そのかげでこっそり、世間に注目されたくない法案を通す、というあのやり方である。
 あれは政治手法というよりは、官僚が考えた裏技に間違いない。政治家の頭では思いつかない種類の、いかにもエリート官僚らしい狡賢い手口である。

 話は戻るが、椎間板ヘルニアなどが、骨と骨のあいだの磨耗や神経の圧迫、または加齢による負担の果ての骨の変形などが真の原因なら、定年退職以降の年齢になると患者数が激減し、発症のピークは、サラリーマンの働きざかりに比例する、というデータの説明がつかない。
 
 さらに肩凝り。
 肩凝りの原因が肉体的なアンバランスなどであるならば……私もかつてそうだったのだが……激しい肩凝りの時に、自分で自分の脳に対し、強く叱責、恫喝すれば、痛みが右の肩から左の肩に移動し、さらに追求すると逃げて消え去るという現象の説明がつかない。
 
 さらに通常肉体における物理的要因から発する、いわゆる直接的な痛みは、まずは当初明確に継続し、やがて時間が経つと麻痺することが多い。
 けれども、頭痛や腰痛は長期に渡って繰り返し継続し、なおかつ、気分が高揚して、意識が他に集中している時は必ずと言っていいほど身を潜める。

 つまり頭痛や腰痛や肩こりの多くは、脳の仕業であり、その根本はストレス。ほとんどは消化しきれない「怒り」であると推測される。

 結局なにが言いたいのかというと、自分の脳を、完全には信じるべからず、ということである。
 
 敵は内にも潜んでいる。しかしてその敵は、本格的な強敵ではない。ズルい、こすい、怠惰なレベルであるから、つまり肩凝りも偏頭痛も、人体・生死にかかわる致命傷には至らないのである。でも肉体の主人としては、非常に厄介な問題であることにはかわりない。

 その昔、多くの人の脳は胃潰瘍を捏造した。 やがて胃潰瘍の原因がストレスだと社会全般に広く知れ渡ってしまうと、もう胃潰瘍を捏造する意味がなくなったので、次に脳が手を変えたのが、偏頭痛だった。
 しかもそれだけなら、ストレート一本で、また胃潰瘍のようにバレるかもしれないので、脳はさらに学習し、肩凝りや腰痛、つまり、カーブやスライダーを混ぜるようになったのである。

 脳は本来、黙々と事務処理を行うことを得意とする官僚・役人でもあるから、その重要な案件の根幹の指示は、私自身がとり仕切らねばならない。

 脳を適正に監視し、間違いや不正や暴走を止める。 それを実行するのは、脳の産物ではないもの、「意識」にほかならない。 おそらくそれが「魂」の正体なのである。

 いい音楽に感動して身が震える時、 決して脳だけが喜んでいるわけではない。 肉体の細胞のすべてがはしゃぎ、感動してふるえているのである。
 そしてそれをまとめて、凝縮したエキスとして感じとっているのが「魂」なのだ。
 魂の神秘性はそこにある。
 だから常に、自分の脳よりも自分の魂を見つめて生きて行くのが、重要なポイントなのである。

 20世紀の末から21世紀にかけて、量子物理学の世界に大きな動きがあった。いわゆる二重スリット実験に象徴される、ミクロの世界で起こる素粒子の摩訶不思議な動きの発見である。
 それは従来までの科学を根底から覆すほどの驚愕的な事件であり、アインシュタインの相対性理論でさえ、古典物理学と名付けてしまうほどの革命であった。 

 そこから見えてきたのは、「意識」が持つエネルギーの存在なのだ。それはすなわち「魂」の存在を科学が容認せざるを得ないということにつながる。

 嘘か本当か、今の量子物理学者のほとんどが、死後の世界の存在を信じているという。
 21世紀になって、人類はようやく冷静に宗教の世界・領域に、足を踏み入れることが出来るようになったのかもしれない。 

 今も頭の中で「魂」という単語が巡り巡っている。

 親近者の死は、生や死の問題と、正面から見つめ合う機会を捻出するために存在するイベントなのかもしれない。
 
 あらためて、私はそう思うのだ。

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