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エッセイ サンボアのおばちゃん

 このあたり(山口)で翁といえば宇部興産の創業者、渡辺祐策(すけさく)を言うようだが、私が育った阪神間では、なんと言っても小林一三(いちぞう)である。

 翁は現在の阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇、などをはじめとする阪急東宝グループの創始者であり、私が関西を離れているうちに、いつのまにか阪急は阪神まで吸収してしまったらしい。

 実業家であるとともに文人でもあった小林一三は山梨の出身で、故郷を思い出す山並みと、長く自分が知らずに憧れた海の、両方の景色を兼ね備えた風光明媚な阪神間に強く惹かれたという。

 それまでの私鉄経営…特に阪神電車は、高速移動は国鉄にまかせて、自分たちは人口の多い町を拾って縫うように線路を敷いていた。

 それに対し、彼は「乗客は電車が創造する」と主張し、当時人が少なかった山手にまず直線的に電車を走らせ、その後積極的な沿線の地域開発によって、長期的な目線で人口の増加を狙った。

 昭和48年、私が中学受験に晴れて合格し、意気揚々と初めて電車通学を体験するようになったまさしくその年に、略称だった「阪急電鉄」に社名を変更したが、それまでは正式名称を「京阪神急行電鉄」といった。
 もちろんJRがまだ"日本国有鉄道"だった頃である。

 東の大阪に百貨店、北摂を真北に上がって抜けると京都の中心街である河原町。

 北西の宝塚には大温泉と歌劇場、そして遊園地。

 さらに宝塚から真南に下ろす今津線が、神戸線と南北東西十路に交わる西宮北口に、甲子園球場に対抗して西宮球場をつくり、そこを阪急ブレーブスの本拠地とした。

 ちなみに甲子園球場と西宮球場は直線距離にすると、わずか2キロしか離れていない。

 小林一三は、開業当初より商業、娯楽施設と同時に住宅地も開拓し、それに先駆け沿線に私学校を積極的に誘致した。関学もそのひとつだった。

 そのおかげで尼崎の下町に育った私も、阪急電車のお世話になることになったのである。

  余談だが、阪神間はどこでも、山が北で海が南にあるから、よほどの方向音痴でさえ、方角は間違えない。

 しかし一歩大阪に入ると大阪湾が紀伊半島に沿って急に南に曲がり、さらに堺のあたりからは、淡路島の洲本あたりに向かって西にせり出すので、海や山を見ても方角がさっぱりつかめない。

 だから阪神間の住人の多くは、しぜんと大阪の地理を苦手とする傾向が強かった。

 それに比べて阪神間は単純である。

 山と海のあいだを三本の線路が平行に走っている。

 南から、阪神、国鉄、そして阪急。
 
 その幅は平地の大きさによって広がったり狭まったりするので、西宮の甲山から六甲山が連なって南にせり出して平地が狭まるにしたがい、どんどん間隔が縮まり、神戸三宮で三線は、ほぼ一カ所に集合する。

 さらに西に行くと、楠木正成で有名な湊川あたりで、阪急、阪神が地下で一本化され、姫路発の山陽電鉄も相互乗り入れするから、一本の線路を三種類の私鉄車両が走ることになる。

 西に下るのはどれに乗っても問題ないが、東に向かうときは注意を要する。あとで、国鉄をはさんで、南と北に分岐してしまうからである。

 私は大阪のすぐ西隣の尼崎に住んでいた。
 尼崎はギリギリだが他の阪神間の地と同様に、南に大阪湾兼瀬戸内海に面するが、六甲山がない。

 そしてさらに北方の山々にぶつかる前には伊丹市と川西市が緩衝していて平地が広いため、三本の路線はそれぞれ2〜3キロは離れている。

 私の家は、国鉄尼崎と阪急塚口のちょうど中間くらいにあった。
 すぐ西に尼崎から福知山線が真北に延びていたが、後にそこで鉄道史上最悪の脱線事故が起こるとは、その頃は夢にも思わなかった。

 私は毎晩、福知山線を走る貨物列車の響きや警笛を聞きながら眠ったのである。

 自宅から市バスで阪急塚口駅まで、およそ15分。やがて私は、所用時間が不安定なバスを嫌い、塚口駅まで自転車で通うようになる。

 塚口から急行なら一駅で西宮北口。普通ならあいだに武庫之荘をはさむ。
 そこで今津線に乗り換え、1駅目の門戸厄神で神戸女学院の生徒が一斉に下車し、次の甲東園で報徳学園、私達の関西学院が降り、その先の駅でも、仁川学院、小林聖心(おばやし)などがあり、通勤客のほとんどは逆に大阪や神戸に向かうので、車内は色とりどりの学生で華やぐ。

 私学には校区というものが存在しないので、各々が毎日阪急電車によって学校に集い、また自分の町へ戻っていく。
 
 もちろん帰る方角が別々だから、ターミナル駅としての西宮北口駅が、休日の待ち合わせや飲み会などで、何かと多用されることになる。

 多くの学生は、西宮北口を、略して「ニシキタ」と呼んだ。

 その、ニシキタの駅前徒歩3分、中州状になった商店街に、色褪せた黄色い看板で《カレー・サンボア》と書かれた、限りなく怪しい店が存在した。

 表の左側のショーケースには、見本のステンレスの皿が4枚。

 営業中でも常に「準備中」の看板がぶら下がっている。

 ドアの窓には内側からカーテンがしてあって、外からは店内の様子が見えない。

 そしてドアには、「学生の店」、さらに、「学生以外はお断り」と念を押してあるが、その字も決して大きいとはいえない。

 一見(いちげん)で入るのは、余程の度胸を要する。万が一入っても、中のおばちゃんが一瞥して社会人だと見切ると、すぐに断られる。

 たいがいの学生は、最初先輩に連れられて、サンボア初体験をすることになる。 
 連れて入る先輩も極めて気を使う。なぜならおばちゃんが恐ろしいからである。

 特に行儀が悪い者や食べ残す者には、代金をとらずに帰し、二度と来ないように念を押す。  
 万が一そんな後輩を連れていけば自分の身も危ないので、慎重にならざるを得ないのである。

 初体験の前に、先輩から後輩に、さまざまな注意事項がなされる。

「いらない事をしゃべらないこと、勝手に盛り上がらないこと、静かに行儀よく食べること」

「常に大人しく落ち着きを維持し、キョロキョロしたり貧乏揺すりなどは決してしてはいけない」

「必ずいただきますを言うこと」

「スプーンをカチャカチャと音を鳴らせて食べないこと」

「コップの水は、原則おかわりができないので、最後まで手をつけないこと」

「万が一食べ残しそうになったら、早めにこっそり自分に伝えること。その時には、こそっと自分が食べきった皿と交換して、自分が残りを食べる。どんなことがあっても、食べ残しは許されない」

「一粒残さず、きれいに食べきること。キャベツだけを残すのは最悪」

「食後はカウンターの上の段に、お皿とコップを上げること」

「必ず、ごちそうさまを言うこと」

「トイレはあるが、決して使用しないこと。あやしければ、先に駅で済ませろ」

 これまでにない……試合の時でも見せないであろう、先輩の必死な説明と真剣なまなざしに、後輩は緊張せざるを得ない。

 そして最後にこう念をおす。

「わからんかったら、とにかく俺の真似をしろ」と。
 
 いくら私学でも、中学生は登下校時の飲食を禁じられていたから、客のほとんどは高校生と、高校生の頃から通っている大学生である。

 一部社会人になってからでも常連は入店を許されるが、それはおばちゃんが気に入ったほんの一部の人間に限られるのである。

 オールバックで、当時ガラが悪い学校で流行したガクランを着た、どこから見ても不良の親玉という感じの報徳の兄ちゃんが食べ残しそうになったので、おばちゃんに説教され、泣きべそをかきながら最後まで無理矢理食べるのを目撃したことがある。

 ちょっとやそっとの悪童やチンピラなど、おばちゃんは鼻クソほどにも思わない。

 決してヒステリックに声を荒げるのではなく、相手の目を見据えて、淡々と、理路整然と、厳しく説教をする。

 長時間かけてようやく食べ終えた不良の兄ちゃんに、

「よう頑張った、やったらできるやないの、なんでもそうやで、ものごと簡単にあきらめたらあかん。ちゃんと食べれたやないの、よう頑張ったな、おばちゃん、あんたを褒めたるで」

 それを聞いて、オールバックが号泣した。
 
 おばちゃんは、昔何度か西宮警察から表彰されたことがあるらしい。
 地域のとんでもない不良を改心させた功績が買われたのである。

 さまざまな武勇伝や伝説が存在したが、おばちゃんはそういうことをいっさい自分の口からは自慢しなかった。おばちゃんにとってはごくあたりまえ、当然の行為だったに違いない。

 その人間的な大きさが、幼少期、普通にヤクザと共存していた下町に育った私には、無条件で理解できたのであった。

 ドアを開けて薄暗く細長い店内に進むと、おばちゃんがカウンター越しに「いらっしゃい」と、静かに迎えるが、いくら学生でも覚えのない顔には何もいわない。

 時々おばちゃんが奥の調理場に入っていて、姿が見えなくても「すいません」などと声をかけてはいけない。

 やがておばちゃんが奥から現れた時に、自然と認識してくれるからである。

 夫婦で経営していたが、おっちゃんは普段奥の調理場にこもっていたので、たまにしか顔を合わせることがなかった。

 オーダーというものはこの店には存在しない。メニューもない。大昔は数種類あったそうなのだが、私の時代にはもうなかった。

 おばちゃんは入店した人数だけを数えて、その人物の食欲を見定めたご飯の量を盛って、ルーをかけてカウンターに置いてくれる。

 見慣れない客には少ししか盛らない。
 初めての客は食べ残す確率が高いからである。

 サンボアのカレーは唯一無二のカレーだった。まず、パッと一目見ればカレーに見えない。オムライスのようにも見える。

 軽く型どったライスの上に、ほとんど白身の薄いタマゴの膜が張っている。
 ルーは薄い黄色で一切粘り気がない。
 ライスの上に数枚薄いカツが乗っているが、カツは外皮だけで、中身はない。
 そして横には細く刻んだキャベツが盛ってある。

 独特のカレースパイスの香りと、キャベツにかけたマヨネーズ系の味が絶妙にマッチする。

 しかし味はやや塩辛く、食べたあとから辛さが口に広がる。
 母親がつくるカレーしか食べたことがない学生が辛さに驚き、すぐに水を口にしてしまうのが理解できる。

 初体験では味を味わう余裕などまるでない。とにかく完食して、最後までおばちゃんに叱られずに無事店の外に出ることで精一杯なのだ。

 実際に数回通っても、さほど美味しいとは感じない。
 しかし足しげく通ううちにおばちゃんに顔を覚えてもらうようになると、しぜんとご飯の量が倍増する。
 貧乏学生にはこれほどありがたいことはない。そして不思議なことに、あの変わった味が、日を追うごとに身体に馴染んで来て、毎日食べねば我慢が出来なくなってくる。

 私たちは陰でこっそり、サンボアのカレーには、食べ続けなければ禁断症状をおこす、何か特殊な麻薬のようなものが入っているに違いないと噂した。

「自分達が若い頃は食べるものに苦労した。だから、育ち盛りの学生に、安い値段でお腹いっぱいになってもらいたいから値段はずっと変えない」と、かなり後年になってから、私はおばちゃんから教えられた。

 これは偽善では決してない。
 サンボアは開店時から、駅前大開発による完全立ち退きが実施される寸前の2002年まで、驚くべきことに、料金はずっと250円だったのだ。

 私が知っている期間だけでも、阪急電車の初乗り一駅運賃が40円から120円になったのに、250円をつらぬいた。

 最後の一年ほどはさすがに350円に値上げしたという噂があるが真偽のほどは定かでない。
 仮にそうであっても安過ぎることに変わりはない。

 ちなみに私が知っている1973年の時点で、すでに店は数十年の歴史を持っていたので、250円という価格は当初はかなり高額な料金だったということになる。

 やがて後になって、様々な証言により、徐々にサンボアの歴史が浮き上がってくるようになる。

 立ち退きが迫った頃に、おっちゃんが病気で入院したらしい。
 その後店は閉店し、そのあたり一面が完全にとり壊され、何十年というサンボアの歴史はあっけなく幕を閉じた。

 数年後おばちゃんも入院して、やがて夫婦ともに世を去ったという。

 私は、数多い常連客の中でも「メガネの研ちゃん、メガネの研ちゃん」と呼ばれて特にかわいがられただけに、何の恩返しもできなかったことが悔やまれてならない。
 
 今年になって高校時代の友人から突然連絡があった。

 取引関係の人が芦屋に新たにパブを開いたが、そのメニューで、サンボアのカレーを復活させたというのだ。

「自分は、おばちゃんに顔を覚えられるまでの常連ではなかった。でもオマエは違うだろ? マスターが是非、オマエのような人間に味の批評をして欲しいと言っている」
 
 前日から米原市の中山間イベント「伊吹の天窓」に出席して現地に一泊し、翌日芦屋でその友人と待ち合わせた。

 7月15日、奇しくも私の52回目の誕生日だった。

 小洒落た店に入ると、すでに我々のテーブルが予約されていた。友人と共に案内して下さったのは、かの大関酒造の重役である。

 マスターと言葉を交わす。

 マスターは、どうしてもサンボアのカレーを再現したくて、ありとあらゆる情報を集め、実際におばちゃんと仲が良かった人がレシピの一部をおばちゃんから聞いていたことを突き止め、そこに日参して学んだそうである。

 また、やはりマスターと同じ様なことを考えて、情報収集していた同業者も他に居たので、彼らとも接触し、互いの秘密を教え合ったのだという。

 そこで明るみに出た事実は、主に調理をしていたおっちゃんは、料理人として並大抵の人物ではなかったということだった。

 独特の味を出すために、調理段階での多くの秘訣が盛り込まれており、おっちゃんが若い頃に超一流の洋食店のシェフだったことが判明する。

 そして何より、おばちゃん以上に、おっちゃんが相当の変人だったのは、まちがいないことだった。

 その料理人が最後に行き着いた味が、サンボアで最後まで残った唯一のメニュー、《インベロ・カツ》だったのだ。

 苦労に苦労を重ねて、試行錯誤を散々繰り返してもできなかったはずだとマスターは語る。
 
 たった250円のカレーは、今なら2,000円で売っても文句が出ないほどの、手が込んだものだったのだ。

 そんな超一流のカレーの味が、高校生にわかるはずがない。
 それでも生涯本格的な味を崩さなかったのだから、やはり変人としか言いようがない。

 私は、まがりなりにも歌を創ることを生業にしているが、あらためて仕事に対する根本的な部分を再確認させられた。

 たとえ味がわからない相手に対してでも、敬意を表し、本物だけを提供し続けなければならないのだ。
 口では言えても、それは生活を背負いながらだと、特に至難の技である。

 サンボアの復刻版を作って、多くの昔の常連客が訪れ、今までわからなかった史実が徐々に明らかになりつつあるという。

 サンボアの開店当初は、やはり大人向けの超高級店だったようで、連日連夜大繁盛していたらしい。

 その頃の常連客は、主に阪急電車の運転手だった。

 しかしある日、原因は不明だが、おっちゃんは阪急の社員と大喧嘩をして、それをきっかけに阪急の社員の入店を拒むようになる。

 おりしもその頃から西宮球場で競輪が始まり、マナーが悪いギャンブル客が急増し、ついにおっちゃんは、大人一切お断りの、学生専門店に変えてしまった。

 商売はそれから一気にしぼんでしまう。儲けが激減した。

 しかし前述のとおり、学生相手に味も値段も一切妥協をしなかった。

 開店休業が続いているうちに物価の方が勝手にどんどん上昇し、250円の価値が極端に下がって来た。
それでも変人のおっちゃんは、味も値段も相変わらず変えることなく、ひたすら、学生相手に商売を続けたのだった。
 
 私の目の前に、懐かしい、二度と会えるとは思わなかったサンボアのカレー、インベロ・カツが運ばれてきた。

マスターが、
「見た目はどうですか?」と聞いて来た。

「スプーンのかたち、以外は、まったく同じです」と答える。

 一口、ルーをすすった。一瞬にして記憶が蘇る。

「この、キャベツのドレッシングとルウーが混ざった時の香りと味、これはサンボアそのものです」

「わかってくれますか? ルーも散々苦労しましたが、実はそのドレッシングが一番難しかったんです」

 更にマスターは、

「なんか、なんか他に無いですか? できれば違うところとか、教えてください。なんでもいいんです。どんな些細なことでも」

 私は感じたことをそのまま伝えた。

「実物はもう少し一口目の辛さが少なかった。最初はもっと塩っぽく感じて、あとで舌がヒリヒリしてきて、それを越したあとにその辛さが逆に甘く感じてくるという感じでした。これは欲を言えば……ほんの少し辛みが前に出すぎて、強い」

 マスターは心当たりがあったようで、それを聞いて非常に喜んでくれた。

 せっせとカレーを口に運びながら、私は涙をごまかすことで必死だった。

 臭覚や味覚は一瞬に時空をさかのぼることが出来る。

 ふと、私が25歳頃のサンボアでの、あるシーンを思い出した。
 
 その日、客は私一人だった。浜松に出張した時のお土産の羊羹を届けたのである。

 おばちゃんがめずらしく、滔々と語りだしたのだった。

「なあ、メガネの研ちゃん、あんたらの時は、みんなええ子やったなあ、そやけど、今の子らはあかんわ、親が悪いんやろな」

 私は黙って話を聞き続けた。

「おばちゃんな、今でもよう忘れんわ、あんたがな、石田君といっしょに、ニチイの前でドーナツ食べとった姿。

 おばちゃん、ガラス越しに後ろから、たまたまそれ見てん。

 3人で、研ちゃんが真ん中にちょこんと座って、左に石田君が座ってたわ。右の子はおばちゃんが知らん子やった。

 何が面白いのか、みんなニコニコ笑っとった。

 友達ってええもんやな……おばちゃんその時、心の底から、そう思ってん」

 その日の事を、私はちゃんと覚えていた。

 サッカーに関する何かの賭けか、ミスの償いで、私がドーナツをおごらされるはめになったのだった。
 そして、後日サンボアで、おばちゃんに叱られた。

「あんな、どんな材料を使こうて作ってるかわからんような、身体に悪いもん食べて、無駄遣いしたらあかん」と。
 
 私は今でも、ごく稀に、サンボアを夢に見る。

 その夢はいつも一瞬で終わる。

 誰も居ない薄暗い店内を進むと、おばちゃんが私を見つけて、
 
「あっ、いらっしゃい、誰かとおもたら、メガネの研ちゃんやんやないの」

 たった、それだけで、夢は必ず終わるのである。   了

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