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エッセイ 辞世の句

 私の友人知人でも、歴史が好きな人は意外に多い。

 そして、その人たちの多くは、幕末に惹かれるようである。

 たしかに、鎌倉や平安となると、遠すぎて手が届かないが、幕末から維新なら、なんとなく、離れているが実感がつかめそうな気がするから不思議だ。

 葵の旗に暴風雨が襲いかかり、300年の武運が尽きた徳川の天下がひっくり返った激動の時代は、もしかしたら、戦争を知らずに育った、今の75歳未満の人間の深層心理の中に、奇妙な憧れとして佇んでいるのかもしれない。

 あの時代、人の命は、簡単に奪われた。

 けれども、現在のような平和な時代には決してない、スジの通った命が、たしかに、多く存在したように思う。というか、思わざるをえない。

 コロナ騒動で中断したが、私のラジオ番組に、「なんとかしてくれ神さま仏さま」というのがある。

 そのいわゆる宗教番組の相方の1人が、宇部護国神社の神主なのだが、その神社の主神が、福原越後である。

 福原越後は、長州藩内の主導権争いの敗北により、禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、責任をかぶることになってしまった。

 岩国の龍護寺で切腹した後、慶応2年(1866年)8月に罪状焼棄の命が下り、藩主に背いた不忠不義の汚名が破棄され、新たにつくられた、維新招魂社(現・宇部護国神社)の主神として遷座されたのである。

 神にまつられるのは、後世において重要だが、消えた命は戻らない。享年50。
 無念だったに違いない。

 かたや、安倍晋三が検事総長に熱望した黒川弘務・前東京高検検事長は、63歳。

 責任をかぶる云々のレベルではない。

 検察のトップに与えられた権力は、福原越後と比較にならないほど、大きく重い。

「くるしさは 
 絶ゆるわが身の夕煙 
 空に立つ名は 
 捨てがてにする」

 これが、福原越後の辞世である。

 解釈が難しい。

「夕煙」とは、夕食の準備をする時に立ちのぼる煙であろう。

 また、「捨てがてにする」という古語は、「捨てがたい」と、訳せるはずである。

 もしも私が、黒川弘務だったら、

 もちろん、退職金を受け取らずに、引きこもったあと、どこかで人知れず、命を絶つに違いない。まさに、断腸の思いであろう。

 生恥をさらすより、ずっといい。
 
 さて、問題は「辞世の句」である。

 おそらく彼には、学校のテストはできたろうが、そんな文才も教養もない。

 しかたがないので、私が憑依して、つくってみた。

「くやしさは 
 絶ゆるわが身の天下り
 立直(リーチ)かけても
 役満振り込む」

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