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ドッガーバンク事件

 1904(明治37)年10月21日夕方。というのは日露戦争の時のことである。
 バルチック艦隊が極東ウラジオストクに向かっていた。
 22日午前0時過ぎ、突然「戦闘配置につけ」のラッパが鳴る。その後艦内はパニックに陥った。なぜなら日本の諜報部員が、相手を心理的に疲弊させるために、さかんに日本の海軍が待ち伏せしていると、わざとデマを流していたからである。
 砲手は恐怖で気が動転し、暗い海面に向けてやみくもに発砲した。
 小型汽船が数隻、探照灯に照らし出され、そのうちの1隻が戦艦「アレクサンドル3世」へ向けて突進してきたように見えたために、
「アレクサンドル3世」と「スワロフ」は、共に砲弾を浴びせかけ、相手を撃沈した。

しかしその小型汽船は、実は漁船だったのである。もちろん非武装の民間の船。

漁船側からすれば、いつものように操業していると、遠くに軍艦が見え、いきなり発砲してきたので、カレイやタラを指し示して漁民であることをアピールしたが、無駄だった。ということになる。

 逃れようとした漁船クレイン号が、自分たちの意図に反し、間違ってロシア艦隊に接近しすぎたために、集中攻撃を受けて沈没し、船長と乗員が死亡した。
 また別の船でも乗員6名が負傷し、そのうち1人は半年後に死亡したのだった。あまりに悲惨な事件である。

 明るくなってから、あとで調べてみると、
ロシア艦隊の戦艦「アリョール」は、なんと驚くことに、6インチ砲17発と砲弾500発を、無抵抗の漁船相手に発射していた。
 その上さらにお粗末なことに、「アリョール」から発射された砲弾のうち5発が、味方の防護巡洋艦「アウロラ」や、装甲巡洋艦 ドミートリイ ドンスコイ に命中し、それによって数名の死傷者も出ていた。

 さて、ここからが重要である。

 バルチック艦隊は、犠牲者を救助しようともせず現場を立ち去ってしまったので、イギリス世論は激高したのだった。
 群衆は激しいデモを行い、新聞はバルチック艦隊を「海賊」「狂犬」だと非難した。

 一方、この頃の日本の外交は、今と違い、
実にしたたかだった。
 漁師の葬儀の当日に、東京市長 尾崎行雄が、素早く弔電を現地に送ったのである。

 何の謝罪もなくドーバー海峡をそのまま通過したバルチック艦隊に対して、イギリス海軍は巡洋艦隊を出撃させ、スペインのビーゴ港まで追尾させると同時に、スペイン政府に対して、バルチック艦隊へ石炭及び真水も一滴たりとて供給したなら、それを中立違反と考えるとの警告を送り、英露間は一気に戦争寸前の緊張状態になった。

 さて、この事件のおかげで、反露・親日の機運が盛り上がり、イギリス本土もその植民地も「バルチック艦隊」の入港を拒否。  
 また、イギリスが供給の大部分を支配していた「無煙炭」の補給もしなかった。

 無煙炭のかわりに安物の石炭しか補給できなかったために、バルチック艦隊の最高速度がかなり落ち、また、黒い煙で早々に日本に発見され、補給不足や寄港の制限で、船員がより疲労を極め……。

 そんなこんなで、そのあとの日本海海戦における、バルチック艦隊の歴史的大敗戦につながったといえるのである。
 
 極東の未開地 島国の小国である日本が、当時世界最強の海軍を有するといわれた白人の大国ロシアを叩きのめした快挙は、それまで西洋列強の植民地に甘んじていたアジア諸国の人々やリーダーに巨大な希望をあたえ、のちにそれが各国の独立運動につながっていった。
 けれども最もびびったのは、白人国家だった。特に、大国、イギリス、アメリカ。
 日本海海戦と同時に、イギリス、アメリカは、いずれ白人にたてつくであろう不気味なモンゴロイド、日本 を叩き潰す必要性を確信し、アメリカに至っては、オモテでは日露戦争の集結の仲介をしながら、国内では早々と、日本を仮想敵国とすることを決定した。

 そう言えは、最近韓国の大統領が、アメリカに行ったさいに、アメリカ政府に、歴史認識をあらためない日本をアメリカの仮想敵国にして欲しい、と嘆願して失笑を買ったそうだが……。
 そんなこと、実は、百年前に、誰から言われたわけでもなく、アメリカはちゃんとわかって実行していたわけである。
 そしてやがて日本は、調子にのって手を広げすぎたのが災いして、非難の種をまき、それをネタに、外交的にあらゆる方向から罠をしかけられ、西洋人が好む狩猟のように、追い詰め、追い込まれていき、ハルノートをつきつけられて筋書きどおりに暴発。
 とりあえず最初は暴れて一矢は報いたものの、山本五十六が戦死してからは戦略が論理性を欠くようになり、ジリ貧状態に突入。
 その後、いよいよヘロヘロになってギブアップ寸前で、国際法を無視した米軍から、一般市民、女性、子ども、老人を対象にした人体実験のために原爆を落とされ、悲惨極まりない、戦争の末路をたどることとなる。
 その間、どれほどのかけがいのない人命が奪われ、それによって、癒され得ぬ悲しみが生みだされたのか……。
 
 忘れてはならない。米兵の戦死者も、たくさん居るのである。
 歴史というのは、本当に残酷で、不思議で、むちゃくちゃである。
 そして、戦争というものは、結局、勝っても負けても、後世につながる崇高なるものを
何も産まない。
 今を生きる我々が、後世に残すべきものは、有形無形の価値ある遺産であるはずである。
 旧世代の野蛮な行為でしかない戦争。
 そんなことが、わかっちゃいるけどやめられない。
 本当に、人類はその程度の無能な生き物なのだろうか?
 人の命以上に大切な何かが、この世の中に本当にあるのだろうか?
 それが私の、歴史認識のひとつなのである。


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