口は災いのもと
一件、夫の悪口である。
ちなみに男の私が言うわけがない。私のとある"女友達"が私に告白したのである。
風呂上りに夫は必ず口癖のように、
「湯船にいい出汁(だし)が出ているから、早くオマエも入れよ」
と言うらしい。
彼女はその表現が嫌で嫌で仕方がなかった。それで、何度も……時にはわざわざあらためて向かいあって、やめるようにと頼んだが、夫は軽くとらえて聞き入れず、それでもなんとか今まで我慢をしてきたそうだ。
ところが先日、いつものように帰宅した夫がいつものように先に風呂にはいり、髪の毛をタオルでふきながらやっぱりその台詞を吐いた。
ランニングシャツのまま食卓について、自分でビールをグラスに注いだ目の前に用意されていたメニューが、運悪く豚しゃぶだった。
「今日は豚肉が安かったのよ」と言いながら妻が土鍋に豚肉を追加した。
しばらくして夫がつぶやいた言葉が、これまでの彼女の我慢を吹き飛ばしてしまった。まさに堪忍袋の緒がスパッと切れたのだ。
「安物の豚は、灰汁(灰汁)が多いなあ」
「はあっ?」
「さっきの湯船みたいに、消しゴムのかすみたいなのも浮いてるもんな」
さあ、これから食事という時に……。
もともとの性格がナイーブな彼女は、その瞬間に離婚を決意した。
ついでにそれは、迅速且つ相当ハードボイルドな実行を伴った。
夫は事の重大さにようやく気づき、子供のことも持ち出して抵抗したが、ぶちまけられた鍋の出汁は、決して元の土鍋に戻らないのであった。
これを、「覆水盆に返らず」、さらに英語では、
It's no use crying over spilt milk. という。知らんけど。
妻は弁護士に離婚の理由はこの一点に尽きると強調した。
「私は、夫がずっと爆弾を組み立てるのを、嫌々ながらも容認してきました。
けれども、まさか彼が最後のスイッチを押すとは思いませんでした。
そもそも、私を突き動かすそのスイッチが、いったいどこにあるかを、私は知りませんでしたから……」
世の中には"魔の時"というものがたしかに存在する。
そしてその隙間に、ありえない確率をかいくぐって、言葉がスコッとはまることがある。
言葉というものは実に恐ろしい。
そして女性も恐ろしい。
私はこっそり肝に銘じた。
「口は災いのもと、舌は災いの根」というのは、真理であると。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?