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エッセイ 虚無僧(こむそう)

 幼稚園にあがる前の3歳から4歳の頃、私が特に恐れたものが3つある。

 それは、"虚無僧"と"傷痍軍人"と"人さらい"である。

 その頃は親子3人で、尼崎の出屋敷という深い下町に住んでいた。

 父親が営んでいた洋服店の近所のアパートだった。竹谷小学校の裏あたりにあったと思う。
 二階建ての一階の突き当たりが、我が家だった。

 成人してから、たまたま車谷長吉の《赤目四十八瀧心中未遂》という小説を読み始めると、私が住んでいたほんのすぐ近所から物語が始まったので、瞬間的に当時のカビ臭い湿気を思い出した。

 当時、特に夜、よく"虚無僧"が出没した。

 "虚無僧"とは、禅宗の一派である普化宗の僧のことで、常に深編笠をかぶっているので、本当の顔を見たことがない。
 だから余計に不気味だった。

 黒っぽい袈裟を着て背筋を伸ばし、尺八を吹きながら悠々と歩いている。

 表現しきれない独特の風格と言うか覚悟のようなものを内に秘めていて、その迫力が半端ではなく、チンピラや時にはヤクザでさえ、関わりを恐れて道を譲った。

 子供の私に危害を加えることなどあろうはずもないのだが、それでも私は、"虚無僧"を激しく恐れたのだ。
 
 "傷痍軍人"は、出屋敷駅の改札を出たあたりから商店街への抜け道でよく見かけた。

 阪神梅田のような繁華街の地下でも必ず見かけた。

 彼らは欠けた身体で器用にアコーディオンやハーモニカを奏でる。

 アコーディオンもハーモニカも、音を出すリードの造りは同じなので、音色が似ている。

 その音が幼い私のDNAを悲しく震わせた。

 それは戦争を知らない私たちの世代にも、歴史の傷跡を共感せよという脅迫のようにも思えたが、私がもっとも恐れたのは彼らの義手や義足だった。

 ちぎれたキューピー人形のような物体に、金属や革のベルトが巻き付いている。それを見た時の極端な恐ろしさの感覚は、現在にまで尾をひいている。

 後年、車で上京する途中、東名高速道路の浜名湖サービスエリアにはいったとたんにハーモニカのメロディが流れて来た。
 懐かしさのあとを冷や汗がすごい形相で追いかけてきた。
 
 "人さらい"は、当時の世情が影響している。
 ちょうど吉展ちゃん誘拐殺人事件が起きたあとで、知らない人には絶対について行くなと大人達が真顔で命じた。

 その語り口調の中に、大人自身が感じている恐怖を見つけ、私はさらに恐れたのだった。
 
 家庭の冷蔵庫でアイスキャンデーを固めるプラステック製の型があった。

 黄色と水色とピンクの三色で、それぞれ異なる形をしていたが、そのうちのピンクが、私にはなぜか"人さらい"に思えた。

 私が頭で勝手に描いていた"人さらい"は、なぜか痩せた長身の30代の男で、眼鏡をかけず、山高帽を被っている。

 その影の形がピンクのアイスキャンデーの型に似ていたのである。

 母は仕方なく、そのひとつだけを水屋(食器棚)の奥に隠した。
 
 私はその頃、極端に身体が弱かった。しょっちゅう熱を出し、出たらすぐに40度を越す。
 父は何度も今晩がヤマだと医者に告げられすぐに親戚を召集するようすすめられた。

 しかし本人である私は、不思議と死を恐れたことが一度もない。

 枕元でなぜ親や親戚が泣いているのかも理解出来なかった。

 どんなに身体がつらい時でも、自分は決して死なないという、自分だからこそわかる確信があった。

 それは決意や思い込みのようなものではなく、"生きる"という運命を自然に受け入れて、その流れに横たわっているだけだった。

 時おり高熱のつらさがふと和らぎ、とても楽になる瞬間がある。
 おそらくそれは体温が上がり過ぎた時なのだと思う。

 あたりが急に静かになり、離れた場所のかすかな話し声まで鮮明に聞こえる。

 私が寝かされている隣の部屋の炬燵に祖母と父が座っていた。

 祖母が押し殺した声で自らの苛立ちをぶつけるように父を叱責している。

「どんな理由であれ、長男を死なせるようじゃ、オマエみたいなもんは、一生うだつが上がらん」

 祖母よりもさらに低い位置にまでうなだれた父が、泣きべそをかきながら、何も反論できない。

 いつのまにか自らの肉体を抜け出した私は、炬燵の父の横に足を入れて座って、長男とは自分のことではなかったのか? それともまだほかに子供がいるのだろうか? などと呑気に考え、父の泣き顔を珍しそうに見上げた。

 これをきっかけに、やがて私は熱がなくても、就寝後密かに肉体を離れることができるようになった。
 そのことをさっそく母に伝えたが、まるで相手にされなかった。

 いつも私のすぐ横に母が寝ていたので、母には母の、そんなことがあるはずがないという確信があったに違いない。

 仰向けに寝ていると、天井の板の木目が見える。
 その木目を見つめていると、それがだんだん泣きべそをかいた人間の顔に見えて来る。
 その顔をもっと近くで見ようとすると、自然に視点が身体から浮き上がるのだ。

 自らの寝姿を見下ろしながら、さらに視点は浮き上がり、すぐに板の模様などどうでもよくなり、やがて何の抵抗もなく私の小さな身体は天井をすり抜けて屋根の上に出る。

 テレビアニメの、《少年忍者 風のフジ丸》が描かれた水色のパジャマ一枚だが、少しも寒くない。というか、寒さや暑さの感覚がない。

 私は、フワフワと高度を上げたり下げたりしながら、いつも歩いている、見慣れた道や公園や学校を見下ろすが、遊び相手など誰も居ない。
 これが一番悲しかった。

 こんな時刻に外に遊びに来る子供などいるわけがないという現実と、夜があけた後の太陽の偉大な明るさを身に染みて理解した。

 大人は、ほんの時々歩いているが、誰も自分の存在に気付かない。
 私の方を見ようともしない。
 完全に孤立したつまらなさと同時に、ちゃんと自分の家に帰れるかどうかが、ふと心配になってくる。

 そして突然恐怖感がわきあがる。

 毎回そこで空中散歩をとりやめ、慌てて家に戻るのである。
 
 誰に話しても、単に夢を見たのだと言って片付けられるので、しぜんとこのことを私は他言しなくなった。

 ところがこれまた後年、ジョン•レノンの長時間インタビューを読んでいて卒倒しそうになった。

 ジョン•レノンの場合は、彼を育てたエミー叔母さんの部屋の2階の窓から、自分の意志でピーターパンのように夜空を飛んだという。

 さらに彼はこう続ける。

「自分は夢や空想の話をしているのではない、とうてい信じてもらえないだろうが、それはとてもリアルな現象だったのだ」と。

 自分だけではなかったのだ。
 やっぱりあれは夢や幻想ではなかったという確信が持てた瞬間だった。

 ちょうど彼がニューヨークで射殺された直後、私が20歳の寒い年末だった。
 
 私が夜空を飛べた頃、やはり死を恐れたことも予感した事も一度もなかった。

 たかだか3歳か4歳の子供に"死"など理解できるわけがないといえばそれまでだが、今から当時をふりかえってみると、そう言いきれるような単純なものでもなかったように思える。

 なぜなら、選択する権利はいつも私にあったのだ。

 それは死ぬか生きるかではなく、戻るか残るかの、二者択一であった。
 
 2歳の時に他界した祖父に、3歳の時に遊んでもらったことがある。

 夢の中ではない。

 母が洗濯物を干しに、アパートの中庭に行った隙である。

「時間がない、時間がない」と言いながら、祖父は私の馬になって遊んでくれた。

 しかしほどなくして、もう本当に時間がなくなったと言い、あわてて玄関のドアを空けて外に出たが、そのドアが閉まったとたんにまた開いて入れ替わりに母が入ってきた。

 やたらと勘が鋭い母が人の気配を感じ、

「誰かが来てたのか?」と、私に問いただした。

 私は「爺ちゃんが来てた」と答える。

 母方の祖父は当時まだ存命だったので、母はすかさずそれを聞いた。

「どこの爺ちゃん?」

「杭瀬の爺ちゃん」

 杭瀬の爺ちゃんなら、1年前に亡くなっている。

 母はただ事ではないと判断したが、異常なほど言語能力が優れていた我が子の作り話ではないかと疑い、事実かどうかを探る為に、私に考える時間を与えず、立て続けに質問を浴びせかけた。

「爺ちゃんと、何をした?」

「遊んでもらった」

「爺ちゃんは、どんな服を着てた?」

「焦げ茶色のズボンと、上は薄い茶色のチョッキ」

「何をして遊んだ?」

「お馬になってもらった」

「研二が爺ちゃんに、お馬になって欲しいと言うたんか?」

「ちゃう、何が欲しいかと聞かれたから、木馬が欲しいと答えたら、木馬はないから、爺ちゃんがお馬になったると言うた」

「爺ちゃん、ほかになんか言うたか?」

「時間がないからもう帰らなあかんゆうて、爺ちゃんが出たらすぐにお母ちゃんが入ってきたから、お母ちゃんも爺ちゃんと、ドアのとこで、すれ違ったはずや」

 ここで母は確信を得て恐怖に震えた。

 そこに追い打ちをかけるように私が言った。

「ほら、その箪笥に、まだ爺ちゃんの影が映ってる」

 母は悲鳴をあげ、幼い私を抱き上げて家を駆け出し、公衆電話から父に電話をかけ、今すぐ店を閉めて帰って来てくれと震えながらうったえた。

 実はこの時、私は祖父と再会の約束をしていたのである。夜の10時に、おくさんばあちゃん(近所の駄菓子屋)の前に、一人でおいでと。

 祖父は特にその約束の他言をとがめなかったのだが、純粋に、もう一度祖父に遊んでもらいたい一心だった私は、なんとなくその話をまわりに隠した。

 いつものように身体を抜け出して会いにいくつもりだったのである。

 ところがここで誤算が生じる。

 両親を発端として、親戚中の大人たちが大騒ぎし始めたのだ。

 祖父の仏壇がある杭瀬の家に大の大人が続々と集まり、大勢が雁首をそろえてひそひそ話を始めた。

 そして普段はとっくに子供が寝かされている10時が近付いてきて、たまらず、私が再会の約束をもらすと、その場がさらに凍り付いた。

 私はどうしても爺ちゃんに会いに行くと言ってきかなかったが、大人はそれを許さない。

 常識的に考えても、夜の10時に3歳児の単独行動を許せるわけがなかった。

 仕方なく、親子同伴で約束の場所に行ったが、祖父は姿を現さなかった。

 もしもあの夜、私が一人で行っていれば、きっと爺ちゃんは研二を連れてあの世に連れて帰ったに違いないと、皆が口々に繰り返した。

 私は、本当は祖父に連れていかれたいと思っていた。

 大げさな顔つきで、本当は知りもしない死後の恐怖を大人たちからくどくどと説かれるのはまっぴらごめんだった。

 それよりも、聡明で優しい祖父と居る方がずっとよかった。

 祖父は、少なくとも私のまわりの大人たちと比べて、誰よりも知的で、私の真の部分を認めて、全身全霊で愛してくれていることがごく自然に理解できた。

 思えばその事件があった頃から、徐々に夜空を飛べなくなったような気がする。

 そして徐々に私は凡人化し、幼稚園に通い始めると、いつのまにか虚弱体質から完全に抜け出していた。
 
 それから50年の歳月が流れ、"虚無僧"も"傷痍軍人"も"人さらい"も恐れなくなったが、相変わらず他の人ほどは、不治の病や死を恐れたことがない。

 悩みがないとか、楽天家だとか、人から羨ましがられたりもするが、本人はそれはそれで、ある意味で困ったものだと感じているから実に厄介である。 了
 

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