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評論 作詞の本音 関西弁

 たまには、歌づくりや創作について、批判覚悟で、思ったまんまの本音を、吐いてみたいと思います。

 本音を言おうとすると、どうしても関西弁になります。なるべく、コテコテにならないよう、標準語寄りにしますが……。

 まず、自分の詩や歌詞・文章に、「個性」などというものを探しているうちは、しょせんはまだまだ素人やということです。

「個性」ちゅうようなもんは、知らんうちに染みでて来るもんなんです。

 そやけど、その染みでたもんを「個性」やと、認識したとたんに、その瞬間から、今度は「個性」の、灰汁(あく)が出てくるようになってまいます。

 案外その灰汁(あく)に気付かん者が多いのが現実です。

 まあそいつらは、逆に幸せなんやと思います。そこに満足して甘んじてると、なんとなく居心地がええですから。
 カラオケボックスで、熱唱してストレス発散ができる人と同じです。

 カラオケ自体が悪いというてるんとちゃいます。
 カラオケは、ゆうても、他人が創ったか…作ったか、造ったかは知らんけど…とにかく、自分の作品ではありません。

 つまり、いくらいい曲、歌に出会えても、それは共感性の延長にあります。 

 もしも、歌に対して、さらなる欲求がでたら、自分専用の歌を、自作せな仕方がなくなるのです。

 話を戻します。灰汁についてです。

 世の中には、案外目ざとい奴がおって、それが灰汁やということを見抜いた上で、灰汁とりですくいあげて、排除しようとするケースが多々あります。

 そこからまた、「あくなき戦い」を余儀なくされるわけですが、コレ、無限地獄なんです。

 この「あくなき」は、偶然洒落になってますが、ここは冗談ではありません。
 
 でも、灰汁を取り除いているうちに、汁がどんどん減ってくる。

 ふと気付いたら、灰汁だけではなく、煮詰めたり蒸発したり、灰汁といっしょに捨てたりして、鍋の中が空っぽになってる場合があります。

「母さん、ぼくの「個性」はどこ行ったんでしょう?」

 などと、人間の証明や西条八十になって途方に暮れても、誰も助けてくれません。

 麦わら帽子は、谷底に消えてしまったのです。

 しょうがないから、一からまた山に芝刈りに出かけます。桃太郎の冒頭のように。

 そんなことを何回も何回も繰り返してるうちに、鍋の底に、なんぼ洗っても、こすってもとれない、影みたいなもんが出来て、それがスープに染み出し、かすかに表面に浮いてきます。

 それをすくいあげて、光をかざし、角度を変えてようよう眺めてみると、ほんのり光の反射で、ビー玉の中の宇宙をのぞいた時みたいに、なんかが見えてくるんです。

 たぶん、それがほんまの「個性」と呼ぶに値するもんなんやと、私は思うわけです。
 
 煮詰める作業と、灰汁(あく)を抜く作業を、果てしなく繰り返すことのみが、創作の基本トレーニングやと、私は思うわけです。

 それでも、時々、上流から、ドンブラコ、ドンブラコと、美味しそうな桃が流れてくることが、ごく稀にあります。

 それがあるから、世の中なかなか、たちが悪いのです。

 羨ましくなると、確実に、打撃フォームが崩れて、とたんに打てなくなりますから。
  
おしまい。 

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