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認知症と対人関係

 認知症にとって、「対人的対応のしかた、ケアの質こそが重要である」と説いた、その筋ではキレ者でとおってるキットウッドというオッさんが、
 認知症患者には、こんなことを絶対にしたり言うたりしたらアカン、とした、
「悪性の対人心理」というのがある。

 それは、

 だます
 出来ることをさせない
 子供扱いする
 おびやかす
 レッテルを貼る
 汚名をきせる
 急がせる
 本人の主観的現実、思いや希望を認めない
 仲間はずれにする
 もの扱いする
 無視する
 無理強いする
 放っておく
 非難する
 中断する
 からかう
 軽蔑する

↑これが、学者のアホさである。

 冷静に、よく考えてみれば、そのバカさに気づくであろう。
「そんなもん、認知症云々以前の対人関係の基本ですやん」
 要は、幼稚園や小学校で教わることだということ。

 これを読んで、
「ああそうやったんか?」と、初めて気づく人間が居たら、その方が大問題である。

 重要なことは、
 この、認知症でない人とのあたりまえの良識ある人間関係を基礎にすえながら、
 認知症の人の個性に対し、さらに突き抜けた関係をいかに構築するのか?
 ということだと、私は思うのである。

 その新たな試みは、実に前衛的かもしれない。過激に見えて、スパルタで、誤解されるかもしれない。

 患者は千差万別、たった一人として、まったく同じ条件、症状、性格、教養、自分史の人間はいないのである。

 それをパターン化してひとまとめにした目で見る病院や社会や家族こそが、個人の尊厳を最も踏みにじる尖兵になる危険性を、一番自覚せねばならないと、思うのである。

 私が言いたいことは、遠浅のペラペラのヒューマニズムの視線からは、非難ごうごうかもしれない。

 ちなみに、我が家においては、上記のタブーにおいて、さすがに、

仲間はずれにしたり、無視したり、暴力をふるったり、放置したりは、しないが、

 それ以外のことは、積極的且つ意図的に、容赦無く行う。
そのかわり、人間として「本気」で。

 学校教育でも、職場の指導でも、何事も、「本気」の核には、揺るがぬ人間愛がある。それが「本気」ということなのだ。

「本気」ということは、人間として、役割こそ違えども、対等である、と見なすことである。

 私は認知症の父に対し、

「鼻毛が出てるぞ」と騙すは、
「玄関から狼が羊の真似してやってくる」と、脅すは、
 悪いことをすれば、「アホボケカス、スカタン」と、どなりつけるは、
 自分がしたオナラを、全部父になすりつけるは、
 無理に飯くわすは、薬のますは、ボロクソに説教して叱るは、替え歌でからかうは、真似をしておちょくるは……。

 父からすれば、よその年寄りのように、呑気にしている暇などとうていないのである。

いつ何が起こるかわからない。とにかく、今をいかにやりすごすか? 生きのびるか?

 そして息子に打ち負かされるより、逆に打ち負かせて、ギャフンと言わせたい。
 とにかく、一矢を報いたい。
 その願望が常にあるのだ。

 昨日の食事のメニューを覚えていた日には、鬼の首をとったように自慢して、自らの正常さをアピールする父。

 息子に言い含められるよりも、言い返して、最後にどのような技で一本勝ちするか。

 息子より、いかにおもしろいギャグや駄洒落を言うか?

 その、日々の強烈な刺激と緊張感は、世間のあらゆる在宅認知症患者が持っていない、ものすごくハードな環境なのである。

 親や肉親が、子どもや認知症の親にしてやれることは、内容的にも時間的にも限られている。
 私はその中でも最大のものは、
「環境づくり」だと思っている。

 だから父は、この緊張感から一刻も早く逃げ出して、一人になりたくて仕方がないのであろう。

 昼夜の区別なく、好きな時に好きなだけ、ダラダラとしたいだけなのだが……。

 そこで、実際の父の健康状態や症状は、どうなのだろう?
 昔よりも改善したのか?

 結果は、特にこの1年間で、家族の目からも施設の人の目からも、明らかに、当初の妖怪人間から人間に戻りつつあるのが、はっきりとわかるのである。結果オーライ。

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